静まりの時
- テーマ:主にあって一つとなる
- 聖書箇所:ピリピ2・1~5
- 日付:2025年10月17日(金)
1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
「励まし」「愛の慰め」「御霊の交わり」「愛情とあわれみ」。キリストにある、ということは、これらの中に今生かされているということです。これらが私のうちにあるならば、信仰に生きる共同体の中にあって「同じ思い」「同じ愛の心」「心を合わせる」「思いを一つに」ということが実現するはずである。同じ思い、同じ愛の心、心を合わせる、思いを一つにする、ということが起こらず、逆にばらばらになっている、それぞれが自分勝手にそれぞれの思いのままに生きている、とすれば、そこにはキリストにある励ましも、愛の慰めも、御霊の交わりも、愛情とあわれみも、何ひとつ手にしていないということになります。
教会共同体に生きる、ということは、キリストの愛の中に生きるということと深く結びついているのです。
3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
信仰を持ってもなお「利己的な思い」「虚栄」から生きてしまうことがあります。礼拝に来ても自分のことばかり、自分がいかに大切にされているか、自分がいかに気持ちよくなっているか、自分が満足しているか、そういうことばかりに生きてしまっている。ほかの人のことを、良い意味で、顧みることがない。
ほかの人のことを顧みるためには、へりくだり、謙遜が必要です。利己的な思い、虚栄に生きてしまうのは、へりくだり、謙遜が育っていないからです。高慢、傲慢なのです。そんな信仰生活に喜びや希望が生まれるはずがありません。
利己的な思いや虚栄に生きてしまうのは、おそらく、自分自身に、そして自分の人生に、肯定感や居心地の良さが見いだせていない、あるいは、どこか否定的な思いがあるからではないか、と想像します。キリストにある、ということは、自分自身に、そして自分の人生に、肯定感、居心地の良さをいただくことです。なぜなら、自分のために、神がいのちを捨てるほどの愛をもっておられる、ということを受け入れたからです。ですから、ことさら自分で虚栄をはる必要はありません。利己的に生きなければならないようなことから解放されたのです。へりくだって、人を自分よりもすぐれた者と思うことができるようにしてくださったのです。ここにキリスト者の自由があります。