静まりの時
- テーマ:主にあって一つとなる
- 聖書箇所:ピリピ1・27~30
- 日付:2025年10月16日(木)
27 ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、
28 どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。
「キリストの福音にふさわしい生活」。それは「霊を一つにして堅く立つ」「福音の信仰のために心を一つにしてともの戦う」「どんなことがあっても、反対者に脅かされることはない」という生活を生み出します。
そしてその「キリストの福音にふさわしい生活」は、「キリストのために苦しむこと」でもあります。その苦しみは、かつてパウロも経験したことであり、それはピリピの信者も見聞きしたことです。
29 あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。
30 かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。
それにしても、キリストの福音にふさわしい生活とは、具体的にどのような生活をいうのでしょう。
このピリピ人への手紙は、喜びの手紙である、といいます。随所に、喜びなさい、という言葉が出てきます。そして心に留まる聖句の一つが、3章20節の「しかし、私たちの国籍は天にあります」ではないかと思います。
国籍が天にある。主を信じる者は、天国人である。そうであれば、この世の人が主を信じる者を見て、そこに天国を見ることができる、ということではないか、と思います。それがキリストの福音にふさわしい生活ではないか、と。
私の生活、言動、を、見た人、聞いた人が、そこに天国を見る。神さまのご支配が豊かにあることを見る。そういう生活をしているだろうか。あまりにも地上のことしか見えないような生活をしているのではないだろうか。そんなことを考えさせられました。
もし地上のことしか見えないような生活となってしまっていたとすれば、おそらく「苦難を負う」ということが、正しく受け止められていないからではないか。あまりにも「快」ばかりが求められているからではないだろうか、などとも考えさせられます。