どうか皆が語ることを一つにして

静まりの時

  • テーマ:主にあって一つとなる
  • 聖書箇所:第一コリント1・10~15
  • 日付:2025年10月14日(火)

10 さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。
11 私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。
12 あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。

コリントの教会には分裂があったと推測されます。パウロ、アポロ、ケファ(ペテロ)はいずれも教会の指導的な立場にあった牧師たちでした。それぞれに魅力的な人物だったと思いますが、その魅力への思慕が高じて徒党を組んでいた、というのでしょう。歴史の教会も、現代の教会にも同じようなことが依然存在しています。嘆かわしいことです。あれだけ偶像礼拝を禁じているといいつつ、結局人間を偶像化しているのだと思います。
「私はキリストに」。これをどう理解するのでしょう。キリストにつく、ということは誉められるべきことではないだろうか。しかしここに重大な偶像礼拝が潜んでいます。
私はキリストに。私こそはキリストについている。私たちこそ真実のキリスト者である、私たちの群れこそ、まっ直ぐに聖書を信じ従っている。そう主張しつつ、他を見下している。他を劣っているとする。ここにこそ、教会の分裂を招く人間の罪が潜んでいるのです。プロテスタント教会のなかにこのような姿が見え隠れしているのではないだろうか、と思う場面もないではありません。

「皆が語ることを一つにする」。それは同じになることではありません。互いに違いを持ちつつも、信仰の告白において一つになる、ということです。使徒信条やニケア信条において、信仰の告白を一つにする、ということです。

13 キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。
14 私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。
15 ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。

「私の名によってバプテスマを受けた」。私、すなわちパウロの名によってバプテスマを受けた、という言い方はキリスト教会の在り方ではないことはよく分かると思います。キリスト教会では、「父と子と聖霊の名によって」バプテスマを授けます。
教会によって方法には多少違いがありますが、いずれも「水」を用いての儀式を行います。水を用いるからといって、いわゆる「水のバプテスマ」ではありません。水のバプテスマであれば、それは、バプテスマのヨハネのバプテスマであって、教会の行っているバプテスマではありません。教会では、父と子と聖霊の名によるバプテスマを行います。つまりキリスト教の入信の際に教会で行うバプテスマは、「聖霊のバプテスマ」なのです。


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