召されたその召しにふさわしく歩みなさい

静まりの時

  • テーマ:主にあって一つとなる
  • 聖書箇所:エペソ4・1~4
  • 日付:2025年10月13日(月)

1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。
2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、
3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
4 あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。

「召されたその召し」。パウロは「救われた」ということを「召された」と語ります。召された、とは、呼び出された、という意味です。神さまが私たちを呼び出してくださった、それに私たちは単純に答えた、それが救われた、ということだ、と語るのです。
召された、ということには、目的があります。召された目的は、昨日の説教個所の第一コリント7章15節によると「平和を得させるため」でした。今朝のエペソ人への手紙の個所によると、2,3節がこれに当たります。

召されたので、その召しにふさわしく歩む。救われた者には、救われた者にふさわしい歩みがある。ふさわしい歩みをすることは、無理な生き方をするのではなく、ごく自然なことです。バラはバラのように、すずめはすずめのように生きる。それと同じように救われた者は救われた者として生きる。
ふさわしく生きるとは、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保つ」生き方です。これとは逆の生き方は、ふさわしくない生き方であり、救われた者にとっては不自然なことなのです。

一致を保つ。しかも熱心に保つ。おそらく一致は熱心に保とうとしなければ不可能なことなのだと思います。
一致を保つ、ということは、多くの場合、その先に目的があります。運動会で総合優勝をするためにクラスが一つになる、企業が成長するために社員が一致団結をする。そういった何か目的があって、そのために一致をします。一致は、手段です。
しかしこの聖書の個所が語るのは、一致そのものが目的である、ということだと思います。

一致をするためには、ここに四つのことが書かれています。謙遜、柔和、寛容、愛をもって互いに忍耐する。この四つがなければ、一致することはおおよそ不可能です。

一致すること自体が目的である。一致のために謙遜、柔和、寛容、愛をもって互いに忍耐する。そうすると、この四つのこと自体がまた、信仰生活の目的である、といえるのではないか、と思います。

何かのために、謙遜になる、柔和になる、寛容になる、愛をもって忍耐する、というのではなく、ひたすらこの四つのことが信仰生活の目標であり、それこそ、救われた者にふさわしい生き方である。聖書はそう語るのだと思います。

教会が一つの行事を終えて、その行事を反省し評価するとき、いかにたくさんの人が集まったのか、予定通りに事が運んだか、目標としていたことが実現できたか、などを振り返ることが多いと思います。しかし教会においては、謙遜であっただろうか、柔和に進行できただろうか、寛容を実現できただろうか、互いに愛をもって忍耐した場面があっただろうか、そうして一つになることができただろうか、と振り返らなければなりません。
たとえいわゆる行事としては反省点の多いことであったとしても、この四つが実現できているならば、その教会行事は大成功であったということができるのだと思います。


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