私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです

静まりの時

  • テーマ:いのちのみことば
  • 聖書箇所:第一ヨハネ1・1~4
  • 日付:2025年10月02日(木)

1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

「いのちのことば」とは、この場合、イエスさまご自身のことです。まことの神であるイエスさまが、この地に来て下さいました。乙女マリアによって生まれ、人としての現れてくださいました。弟子たちはこのイエスさまと、ともに旅をしました。イエスさまは、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの」でしたが、今や弟子たちにとっては「自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの」となりました。イエスさまこそまことの「いのちのことば」でした。
この「いのち」が現れました。イエスさまこそまことのいのちです。

「御父とともにあり」、そして「私たちに現われた」この永遠のいのち。それを「見た」ので、「証しして、あなたがたに伝え」るとヨハネは語ります。

証しし、伝えるのは、確かに「見た」からです。しかし永遠のいのちを果たして見ることができるだろうか。いのちとは目に見えないものなのではないだろうか。その目に見えないはずの、永遠のいのち、を見た、というヨハネは、あるいは教会は、いったい何を見たのだろうか。

彼らは、イエスさまを見た、のです。しかし彼らがイエスさまに見た、見出したのは、永遠のいのち、でした。
しかしこの後、ヨハネの手紙に書かれることは、神の子とされたものにふさわしい生き方であり、互いに愛することでした。永遠のいのちとは、互いに愛する生き方、そのものである、と続くようです。こうなると、永遠のいのちとは、死後のいのちにとどまらず、救われた者の新しい生き方そのものである、と書かれているように思います。

ヨハネは、自分たちが見たこと、聞いたことを、伝える、といいます。その目的は、「私たちと交わりを持つようになるため」であり、そうして、「私たちの喜びが満ちあふれるようになるため」であると語ります。

交わりとは、「御父また御子イエス・キリストとの交わり」であると語ります。交わりというと兄弟姉妹の交わりを真っ先に思いうかべますが、ヨハネはまず神さまとの交わりである、しかも御父と御子との交わりである、といいます。

兄弟姉妹の豊かな交わりがあったとしても、それが御父、御子との交わりでないならば、それは聖書の語る交わりではない。逆に、兄弟姉妹の交わりが希薄に感じられても、そこに神さまとの交わりがあるならば、豊かな交わりが実現している。たった一人獄中にあったとしても、神さまとの交わりの中にあるならば、教会の交わりの中に生きていることである。多くの聖徒たちがそうであったように。

そうしてこのような交わりの中にある、ということこそ、「喜びが満ちあふれる」こととなる。満ちあふれる喜びを生み出す。御父、御子との交わりこそ、満ちあふれる喜びに生きる道である。

神さまとの交わりが実現されるために、イエスさまを伝える、みことばを語り伝える。宣教のわざは、この交わりの実現が目的のようにも思われます。


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