キリスト・イエスにあって一つ

静まりの時

  • テーマ:主人と僕
  • 聖書箇所:ガラテヤ3・26~29
  • 日付:2025年09月26日(金)

27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。

バプテスマ、すなわち洗礼を受けた、ということは、キリストを着たことであり、それによってもはやさまざまなこの世の立場を超えて、一つにされている、とパウロは語ります。
キリスト・イエスにあって一つである、ということはいったいどういうことでしょう。

藤木正三先生が「一致」という題で次のような文章を書いておられます。

話し合ってゆくうちに、相違している立場が一致点を見出すかに思える場合があります。しかし、厳密に問うてゆくと、矢張り相違点は残っています。もし、一致が同一を意味するのなら、完全な一致というものは、おそらく存在しないでしょう。そのような存在しえない一致を求めるから、時には、自説の押しつけをし、時には、虚構の一致に妥協するのです。一致とは、相違しているものが同一になることではなくて、実は、それらが補完し合うことなのです。補完だけが一致なのです。人間は、それほどに深く相違しています。
(藤木正三、『神の風景』、44頁)

おそらくキリスト・イエスにあって一つ、ということは、この文章でいうならば、「同一」ということではないように思います。「同一になることではなくて、実は、それらが補完し合うこと」、「補完だけが一致」である、と。

これは第一コリント12でも語られていることですが、さまざまな違いを持つお互いが、その違いを、押し付けたり、虚構の一致に妥協するのではなく、互いの違いが生かされ、お互いを補完し合い、一つのからだとなっている。それが、ここでいう、キリスト・イエスにあって一つである、という意味なのだと思います。

洗礼を受ける、という決意は、この、お互いを補完し合う覚悟のようなもの、なのだと思います。洗礼があまりにも個人主義的に捉えられていると、この恵みが理解されない場合があります。


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