静まりの時
- テーマ:主人と奴隷
- 聖書箇所:申命記15・12~18
- 日付:2025年09月24日(水)
15 あなたは、エジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主があなたを贖い出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、私は今日このことをあなたに命じるのである。
主人が奴隷を大切に扱うのは、自らもかつて奴隷であって、その奴隷であった自分を神さまが贖い出してくださったことを覚えるからです。自分への正しい視点が、隣人への愛を生み出します。逆に自分が何者かになったような気分で、救いが自分の本来持っている何かによるもの、あるいは自分の努力や行いによるもの、と誤解してしまった時、隣人への愛は失われてしまいます。たとえ愛の行為が行われたとしても、それは上から下への蔑みとなってしまい、もはや愛とは呼べない異質なもの、グロテスクなものとなってしまいます。
キリスト者の行う愛の行為は、自らは救われた者である、ということから生み出されるものです。
一方的な愛で愛されている、ということが理解されるところで、隣人への愛は成り立ちます。
16 しかし、その人があなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいて幸せなので、「あなたのもとから去りたくありません」と言うなら、
17 あなたはきりを取って、彼の耳を戸に刺しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。
きりで耳を戸に刺す、などということは、そのまま受け取ることのできない聖書の言葉の一つだと思います。意味は、おそらく自らの身体に何らかのしるしをつけることによって、自らの身分を固定する、と言うことだと思います。奴隷に本人の意志とは別に、刺青(入れ墨)を入れるという風習がかつてあったと思いますが、耳に穴をあける、というのもあったのですね。ここでは本人の意志によってなされることです。自らの身分を固定する、ということは現代からすると考えにくいことですが、耳の穴であれば、その意思を失った時には、時間と共に消滅する可能性もあるのかもしれません。
主人と奴隷の関係において、その主従の関係を越えて、愛の関係が生まれることを想定している聖書の記述には、少なからず先進性を感じます。
12 もしあなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目には自由の身として、あなたのもとから去らせなければならない。
13 その人を自由の身として去らせるときは、何も持たせずに去らせてはならない。
14 必ず、あなたの羊の群れと打ち場と踏み場のうちから取って、彼に分けてやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを与えなければならない。
奴隷の身分が、無期限ではない、と語られています。さらに解放の時には、それ相応のものが渡されるのです。奴隷を、大切な労働者として扱おうとすることが起こり始めているのかもしれません。