静まりの時 使徒4・32~35〔信徒の交わり〕
日付:2025年07月01日(火)
32 さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。
33 使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。
34 彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、
35 使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。
聖霊降臨の日に三千人が受洗し、そうして始まったキリスト教会は、世間からは当時のユダヤ教の一派のように見られていたと思います。しかし彼らの信仰的主張には明らかにユダヤ教との違いがありました。それは「主イエスの復活」を大きな力をもって証ししていたことでした。その証しとは具体的にはさまざまなことばが語られたのだと思いますが、ここに特徴的なこととしては「彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった」、そのために「地所や家を所有している者はみな、それを売り」必要な信者に分配していたのです。
復活信仰は、具体的な生活のあり方にまで影響を及ぼしました。
「大きな恵みが彼ら全員の上にあった」。つまりこのような具体的な助け合いは、強制的に行われたのではなく、恵みの中で行われました。自由な心、愛と喜びの中で行われたのです。
「使徒たちの足もとに置いた」。分配の方法は、それぞれが導かれるままに誰かさんに渡すということではなく、使徒たちに委ねられました。使徒たちはかなり忙しくなり、結局のちにこのような分配の役割りは分担されることになります(6章)。
それにしても三千人の信者です。おそらくこの時点ではさらに増加していたにちがいありません。その全員に乏しい者はいなかった、そのような取り組みをしていた、組織的にというわけではなく、しかし無秩序にというわけでもなく、それらが行われていたのです。 驚くべきことです。
神学校の時に学んだキリスト教倫理の授業のなかで、課題図書として読んだ書物を最近取り出して再読しています。ホコリをはらって再読すると、如何に読んでいなかったか、読んでいるふりをしていただけであったかが分かります(笑)。その中の一つとして、ゴットホルト・ミュラーの『現代キリスト教倫理』を今読み始めました。この本がキリスト教倫理の基本として提示するのが、「キリストに従う」、という言葉です。この言葉のみが「形式的にも内容的にもキリスト教倫理の本質を構成する諸要素を包摂している」とこの本は語りはじめます。
キリストに従う。初代教会が、互いに配慮をしあいながら、互いの貧しさを補うために、使徒たちへなにがしかを持ち寄ってくる、すなわち教会の権威を大切にし、秩序だった愛の行動におのずと生きたのは、この「キリストに従う」の一言だったのだと思います。自らのご利益ばかりを追い求めるご利益宗教では決して見ることのできない愛の共同体の姿がここにあります。