静まりの時 使徒12・1~11〔主の証人たち〕
日付:2025年06月21日(土)
7 すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした。御使いはペテロの脇腹を突いて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。
イスラエルの王であるヘロデが「教会の中のある人たち」を苦しめようとしました。教会に対する迫害は、ステパノの殉教以来激しくなっています。パリサイ人、サドカイ人、律法学者、祭司たちなどなどが、教会に対する態度を鮮明にしていきました。一方多くの人たちは教会に対して好意をもっていた(使徒2・47)とも書かれています。この時イスラエルの国を治めるのはなかなか難しい感じです。王であったヘロデの政治的手腕が問われています。
ヘロデは教会全体に対しての迫害をしようとした、というよりも、教会の中のある人たち、を苦しめようとした、といいます。ヘロデは、純粋なユダヤ人ではなかったと伝えられますから、常に民衆の支持率は気になるところだったのだと思います。ヨハネの兄弟ヤコブの殺害は、いわゆる人気取りだったのだのでしょう。それが「ユダヤ人に喜ばれた」ので、調子にのってペテロも捕らえにかかり、種なしパンの祭りの時に民衆の前に引き出そうと考えました。いわゆる政治家の行動の底には、つねに人気取り、つまり票集めがあります。善悪や法律順守、信念は、二の次三の次のようです。
ヤコブの時のように、ペテロも容易く思い通りになるとヘロデは考えていたことでしょう。しかしペテロは、不思議な方法で解放されました。その後、国家権力を総動員して捜索してもペテロは見つかりませんでした(19)。そのとき、責任を追及された番兵たちが処刑されたという事実は、なんとも釈然としません。イエスさまが復活されたときに、墓を守っていた番兵たちも同じ運命をたどったのでしょうか。マタイの福音書を見ると、少し違った道を歩むことになった感じがします。
「すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした」。
当時の牢屋がどのような状況にあったのか、想像するばかりですが、おそらく不衛生な中、漆黒の闇の中に兵士の間に横たえられているペテロは、鎖につながれ身動きができません。そんな中に熟睡できるとは到底思えませんが、意識を失うようなことだったのかもしれません。イエスさまが十字架に向かわれるとき、三度イエスさまを知らないと言って、自らにかかる火の粉を振り払ったペテロは、今は、その信仰のゆえに囚われの身となりました。想像も絶する苦しみの中に置かれていますが、心はどこか晴れやかだったのかもしれません。ヤコブが殺された、次は自分だ。イエスさまの御側にまもなく行くのだ。
しかし神さまの御業は、人間の想像を超えたところで発動し前進します。何の前触れもなく突然、暗闇に光が差し込みました。ペテロは導かれるままに解放への道を一歩一歩進んでいきました。
ヤコブは殺され、ペテロは解放されました。ここに謎があります。この不公平に関してさまざまな理由が語られるかもしれません。しかし聖書は完全に沈黙します。
「何ゆえ御神は かかる身をも 神の子とせしか 知るを得ねど
わがより頼む主は 委ねたる身と魂を 守り得給うと 確信するなり」(新聖歌357)
信仰の確信は、なぜ救ってくださったかという理由が解明されて生まれるものではなく、ただ主により頼む者を、主は守ってくださると信じることです。主により頼む者を守ってくださるということならば、主により頼まない者は守ってくださらないのか、と問うこともしません。主にある者はただ守ってくださったことを喜び感謝するのです。