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神の聖霊を悲しませてはいけません

静まりの時 エペソ4・30~32〔聖霊を受ける〕
日付:2025年06月13日(金)

30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
31 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。
32 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

 自分の願望や欲望を満たすことによって、だれかが悲しんでいる、誰かに悲しみを与えている。そういう状態で平気でいることができるだろうか。ましてや、自分を無条件に赦してくださったお方を悲しませているとすれば、心刺されて、それまで満たそうとしていた願望や欲望から身を引くのではないだろうか。
 しかし人間の罪性は、深く、自分の願望や欲望を満たすことによって、誰かを悲しませることになったとしても、それでも自分の願望や欲望に執着することも多いのではないだろうか。
 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去り、むしろ互いに親切にし、優しい心で赦し合う。そのように私たちは招かれています。そのためにも、私たちはみな贖いの日のために、聖霊によって証印を押されています。すなわち保証されています。
 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりは、いったいどこから出てくるのだろうか。よこしまな心から出てくるのだろうか。それともむしろ義憤も含めて、自分の正しさが生み出しているのではないだろうか。そこにけっして悪意はないということができるだろうか。パウロは悪意と共に捨てよ、と語ります。
 捨てるだけではない。むしろ、互いに親切にすること、優しい心で赦し合うこと。悪意は捨てたけれども、親切にできない、優しい心で赦し合うことができないならば、それはいまだ悪意を捨ててはいない。
 キリストは、私たちのためにいのちを捨ててくださいました。無限の愛を注いでくださいました。無条件の赦しを与えてくださったのです。
 聖霊を悲しませてはいけない。私たちが依然悪意を持ち続けているならば、聖霊は悲しんでおられる。聖霊の証印をいただいた私たちは聖霊と共に歩んでいます。自分一人で歩んでいるわけではない。最も身近におられともに歩んでいてくださるお方を悲しませていて人生の祝福があるはずがありません。
 聖霊は、霊的な力、エネルギーというようなものではない。人格(位格)をもった神ご自身です。聖霊が悲しんでおられるのに平気でいられるとすれば、聖霊を人格として信じていない証拠かもしれない。三位一体の神への信仰が確かにされていないのかもしれない。


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