静まりの時 ローマ8・12~17〔聖霊を受ける〕
日付:2025年06月11日(水)
13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
「肉に従って生きる」とは、この場合、ガラテヤの5章19~21の
19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。
と思います。そういう生き方をしているならば、「死ぬこと」になるとパウロは語ります。
それに対して、「御霊によってからだの行いを殺す」ならば、生きることになる、と語ります。
「からだの行いを殺す」とは、上記の肉の行いに傾きやすい私たちが、それにあらがって生きる、ということです。そうすれば「生きる」のです。しかし、イエスさまを信じてもなお、からだの行いを殺そうとしないならば、それは肉に従って生きているのであって、その先には死が待っているのです。
イエスさまを信じて救われた、ということは、過去、現在、将来の罪のすべてが赦されたということです。しかしそれは赦されているので何をしていてもよい、自堕落な生活をしていても大丈夫、などということを聖書は語っていません。竹森満佐一先生の言葉で言うならば「キリスト者となった者が、救いを受けたからといって、無責任な生活をするというのではない」のです。
「からだの行いを殺す」。どのように殺すのか。何によって殺すのか。パウロは「御霊によって」殺すのだ、と語ります。御霊によって殺すとはいったいどういう意味だろう。
「御霊によって」ということは、人間の力によるのではない、ということです。人間、すなわち自分自身の力によるのではない。神さまによってからだの行いを殺すのだ、と。ここに神と私が相対するものとして置かれているように思います。「私」は肉の思いに満ちていて、私に従うならば、それはすなわち肉に従って生きることである。それに対して「神」に従って生きる、そうしてからだの行いを殺す。「神」とは、「私」にとっては絶対他者です。その絶対他者である神を「アバ、父よ」と親しく呼ぶことのできる者としていただいた。その私は自分の肉なる思いに従って生きることから解放された。自由に神に従う者とされた。自己中心から神中心への招かれたのです。
神さまの御力によって、みずからのからだの行いを殺す。そこにいのちの道が築かれていく。
では神さまの御力によって、みずからのからだの行いを殺す、とは具体的にどういうことだろうか。
自分がどうしようもない罪びとである、ということが理解されていると、少なくとも自分に従う、ということから、まず解放されなければならない。もし御霊に導かれる、ということが、自分の心の赴くままに、自由に、と理解されるとすると、自分という者の中に、生まれながらに霊的な素質があり、そこに善があり、神の御心がある、と告白していることになる。
とすると、どうしても自分の外側に、自分を変えるものがあり、それを自分のなかに取り込む、ということで、自らが変えられていく、ということになる。自分の外側にあるものとはいったいなんだろうか。
自分に挑戦する聖書のことば、自分とは別の物質である聖餐の物素、自分の外側との関わりの中に行われる礼拝式。そういったものこそ、自分を造り替えるものである、と告白することになるのではないか。