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もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです

静まりの時 ヨハネ14・12~17〔聖霊の約束〕
日付:2025年06月02日(月)

15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

 イエスさまを愛する、ということが、私がイエスさまの戒めを守ろうとする根拠であり力である。もしイエスさまの戒めを守ろうとしない、というならば、それはイエスさまを愛していないことである。
 イエスさまを愛しているならば、あるいは愛していくならば、そこにイエスさまの戒めを守る道が開かれていく。あるいは築かれていく。それは自分自身が変えられていくことである。
 イエスさまを愛する、ということは、自分自身が古い自己から新しい自己へ変えられていくことである。礼拝がイエスさまを愛する行為であるならば、礼拝をささげるごとに私たちは変えられていく。礼拝が講演会や観劇のようになってはならない。それでは自己を変える覚悟はどこにも存在していない。礼拝はイエスさまを愛すること、すなわち私自身を献げるときなのである。

聖人に似るのでもなければ、天使に似るのでもありません。キリスト御自身に似るのです。神があなたがたや私のなかにつくり上げようとしていることが、ほかならぬこのことであるということに気がついたならば、驚かないわけにはゆかないでしょう。つまり、私たちの貧弱でぼろぼろの性格がキリストの性格のようになり、この移り気な意志がキリストの意志のようになり、このうす汚れた魂がキリストの魂のようになるということなのです。これが私たちに決められている定めなのです――私たちが愛した人々のなかのある人たちはその定めを辿って行ったのです。これがイエスの愛の高さなのです。

J.S.スチュワート、「人知をはるかにこえた愛」、『永遠の王者――J.S.スチュワート説教集』、日本基督教団出版局、1981年、136頁

命題404 私たちはすでに神との和解の関係に投げ入れられている。しかし私たちはこの福音の事実にまだ完全には対応していない。そこに聖化を必要とする理由がある。
命題405 義認が徹頭徹尾神の恵みであるとすれば、聖化もまた徹頭徹尾、もう一つの神の恵みである。義認と聖化を分離することはできないが、聖化は義認と区別される。義認は聖化の前提であり、聖化は義認の目標である。

芳賀力、「第8章 義認と聖化」、『神学の小径Ⅴ――成就への問い』、キリスト新聞社、2023年、175頁f


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