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信仰は聞くことから始まります

静まりの時 ローマ10・14~18〔地の果てまで〕
日付:2025年05月31日(土)

16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。
 「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」
とイザヤは言っています。
17 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
18 では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、むしろ、
 「その響きは全地に、
 そのことばは、世界の果てまで届いた」
のです。

 信仰は「聞くこと」から始まります。
 聞くためには、語られなければなりませんので、語られたということのほうが始まりのような気もします。しかしその語られたということも、その話者がまず聞いた、ということがあって成り立ちます。卵が先か鶏が先か、みたいなことになりますが、もとをただせば、神さまが言葉となって私たちに語ってくださったので、それを聞いたことが信仰の始まりですから、やはり人間においては聞くということから信仰は始まります。
 様々な事情や問題を抱えて教会にやって来て、その苦しみや悲しみを話す。そこではまず話すということがなされ、牧師は聞くということをします。しかし聞きっぱなしではなく教会は聖書を語ります。教会にやって来た人に、それを聞くということが起こります。
 聖書の言葉を聞くことが出来るかどうか。それが信仰が始まるかどうかを決します。すべての人が聞き、従うわけではありません。不思議に聞いた人、その言葉に従った人が生まれます。まさに神さまに御業です。
 聞くということ。それが信仰を生みだします。ですから礼拝において最初のプログラムは黙祷であり招詞です。聞く、ということを最初にするのです。

 パウロは聞くということを「キリストについてのことばを通して実現するのです」と語りました。いわゆる聖書の言葉です。しかし続いて「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」と語りました。色々と解釈できる言葉だと思いますが、一つはこの世界の被造物、神羅万象をとおして神さまの言葉は響いている、世界の果てまで届いていると理解できると思います。心を静めて自分を取り巻く世界に神経を解き済ませていくとそこに神さまの言葉が聞こえてい来る、とも理解できるかもしれません。

 聞く、ということはなかなか難しいものです。人間はすべて、聞くことよりも話すことのほうが好きです。あるいは話すことのほうが楽、といったほうがいいかもしれません。逆に聞くということはどこか苦痛を伴う場合があります。聞くだけではなく聞き従うというとなおさらです。

 イエスさまのお言葉を聞くことを喜びとしたいと思います。


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