静まりの時 ローマ15・14~21〔地の果てまで〕
日付:2025年05月30日(金)
17 ですから、神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。
「誇りを持つ」。「誇り」という言葉自体には二種類の意味があるように思います。自尊心、プライドを持つ、矜恃を保つというと、どちらかというと必要なこと、積極的なことのように感じます。逆に、自慢、いばる、いい気になる、得意になる、というと、どちらかというと否定的な感じがします。この二つは明確に分けることが難しいのではないかと思います。混ざりあっているのが現実ではないか、と。
この言葉の共通の語根の単語は聖書の中にたくさん出てきますが、その一つにローマ5章2節があります。
「このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」
この「喜んでいます」は、「カウカオマイ」。今朝の「誇り」は「カウケーシス」。同じ語根なので、新改訳では欄外注に「誇りとしています」と、その説明が書かれています。
誇ることは、喜びです。しかしその喜びが自分だけに向けられているものであれば、それはむなしい喜びです。神さまと一緒に喜ぶ、神さまを喜ぶ。そのような喜びこそいつまでも色あせることのない永遠のものです。
人間は何かを誇らずには生きていけません。できれば、むなしい喜びではなく、永遠に続く喜びに生きたいものです。