静まりの時 エペソ3・14~19〔祈りの準備〕
日付:2025年05月22日(木)
14 こういうわけで、私は膝をかがめて、
15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
ここで「家族」と訳されている言葉は、原文のギリシャ語で「パトリア」。「御父」は「パテール」。同じ語根の言葉です。家族と訳される言葉には、ほかに「オイコス」というのがありますが、こちらは家、住居、とも訳される言葉で、この個所でオイコスではなく、パトリアが使われているのには、家族といっても父とのつながりの中にある集団、という意味が強調されているのかもしれません。
今私は父なる神さまとのつながりの中に置かれている。そのようにしてくださったのは父なる神さまである。その絆は決して切れない。またその絆は、私と父なる神さまとの間にあるだけではなく、信仰共同体である教会、そこにともに生きる兄弟姉妹との間にも存在している。それもまた決して切れることのない絆である。その深いつながりの中においていただいた私たち。それが教会である。教会は父なる神さまのもとに置かれた一つの家族なのです。
そのようなお互いであることが確認されたうえで、パウロはその兄弟姉妹のために祈ります。
誰かのために祈る、ということは、その誰かと私が、父なる神さまにつながる者同士の関係の中にあることが確認されて成り立つことである。あるいは互いに父なる神さまにつながる者同士であるということは、互いに祈り合う関係に置かれている、ということである。教会につながる、ということは、互いに祈り合う者同士にされた、ということである。
教会に電話による連絡網が必要とされた時代。どこの教会でもそうでしたが、そこで回される情報に、病の中にある兄弟姉妹のための祈りの課題がありました。それを聞いた教会外のある方が「へ~、そんなことが電話で回ってくるのか」と大そう不思議に思われるとともに感激されたことを覚えています。こういうことが成り立つためには、いわゆる大人の信頼関係が築かれていなければなりませんので、集団がだんだん大きくなると難しくなっていきます。せいぜい20~30人までの集団で機能することだと思います。それ以上になると、情報は独り歩きし結果的に当事者を傷つけてしまうことも起こってきます。大人数でもそれが機能することもないわけではありませんが、そのためには集団がいわゆる良識を持った大人の集団と成熟している必要がありますし、そのためには、指導者によるきちんとした管理が求められます。そのような管理が成り立つためには、集団から指導者への深い信頼が前提となるでしょう。
出来れば少人数の祈りの仲間ができればよいのだと思います。そしてその少人数の祈りの仲間が、牧会スタッフと深い信頼関係の中で情報が豊かにされている、ということ。他の少人数の祈りの仲間のことを、たとえ自分は知らなくても、牧会スタッフが知っている、ということに信頼と平安を持つ。大家族というのはそういうものです。無関心では成り立たない。かといって何もかも知りたがる親のもとでは子どもは窒息してしまいます。
信仰の家族の基は父なる神さまにあるのです。