静まりの時 詩篇5・1~12〔祈りの準備〕
日付:2025年05月19日(月)
8 主よ 私を待ち伏せている者がいますから
あなたの義によって私を導いてください。
私の前にあなたの道をまっすぐにしてください。
9 彼らの口には真実がなく
心にあるのは破壊です。
彼らの喉は開いた墓。
彼らはその舌でへつらうのです。
「あなたの義によって」。新共同訳では「恵みの御業のうちに」。人間の考える正しさは、時に愛が見失われてしまうことがある。しかし神さまの義、神さまの正しさは、恵みの御業です。神さまにおいて愛と義は一つです。
破壊する者の舌はへつらいで満ちています。「滑らか」(新共同訳、共同訳2018)なのです。しかしその言葉が発せられる喉は「開いた墓」。その言葉は私たちを墓へ、滅びへ、腐敗へと私たちをいざないます。どんなに耳障りの良いことばであっても、そこに「真実」「正しいこと」「確かなこと」がないならば、私たちを生かすものではありません。
真実こそ私たちを生かすものです。真実は神さまだけがお持ちになっておられるものです。しかし私たちも神さまから真実を学ぶことによって真実に生きることが出来ます。自分を生かし、隣人を生かす言葉に生きることが出来るのです。
「神は最高の真理であるから、謙遜は真理のうちに歩むことである。・・・私たちは何もよいものを持たず、あわれさと無に過ぎないことは本当に大きな真理です。これが分からない人は偽りのうちに歩みます。このことをよく分かれば分かるほど、それだけその人は最高の真理の御心にかなうのです。なぜなら、その真理のうちに歩んでいるからです。」
(アビラの聖女テレサ、『霊魂の城』、鈴木宣明監修、高橋テレサ訳、聖母文庫、聖母の騎士社、1992年,2011年、351頁)
神さまご自身が真理である、ということは、私は真理ではない、ということを告白しています。その真理ではない私が、真理に歩むためには、神さまと共に歩まなければなりません。神さまとともに歩むためには、自らがへりくだり、謙遜に歩まなければなりません。謙遜に歩むならば、そのところに、神さまとともに歩んでいることが明らかにされています。真理に生きる、ということは、謙遜に生きるということと同じことなのです。
真理に生きることが、自分を、そして他者を生かすことであるならば、それはまた謙遜に歩むことが自分を生かすことであり、他者を生かすことになるのだと思います。