静まりの時 ヨハネ15・1~11〔キリストの愛のうちに〕
日付:2025年05月16日(金)
5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
ぶどうの木であるイエスさまにとどまる。そしてイエスさまのほうが私にとどまってくださる。この二つの関係は、神秘に満ちています。
私がイエスさまにとどまる、という決意が生まれたとすれば、すでにそこにイエスさまが私にとどまってくださったということが起こっています。それと同時に、イエスさまが私にとどまってくださるということは、イエスさまが強制的になさることではなく、私という一個の人格をイエスさまが大切にしてくださった中に生まれるものである。つまり私の決意と告白が大切です。
そうして言葉や理屈では説明しつくせない神秘的な出会いの中に、イエスさまに結びついているならば、おのずと多くの実を結ぶ。ここで大切なのは、おのずと実を結ぶ、ということです。実を結ぶことに重きがあるのではなく、イエスさまに結びついている、ということに重点が置かれています。とにかくイエスさまにつながってさえいれば、だれであっても多くの実を結ぶのです。
多くの説教者たちは、このイエスさまにとどまるということは、それは教会にとどまることであると語っています。教会はイエスさまのからだなのです。
「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1・23)
とすれば、「教会はいろいろない人が集まっていてときおり問題も起こる。居心地の悪い時もしばしばある。だから教会にはつながらないけれども、私はイエスさまにつながっているから大丈夫だ」ということは成り立たないことになります。ある説教では、そういう信仰生活は、燃料の切れたストーブのようなものだ、と語られていました。確かに熱は残っているがそれもしばらくの間のことでやがて冷え切ってしまうだろう、と。少なくとも誰かを温めるほどのものにはなりえない。ストーブはまず自分自身がしっかりと温まって、そうして周りの者をあたためるのです。私がしっかりとイエスさまに結びつき、イエスさまの愛で温めていただいているならば、おのずと周りを温め、多くの実を結びます。とにもかくにも教会につながっている、ということこそ、イエスさまにとどまっていることなのです。