静まりの時 申命記6・1~3〔豊かないのち〕
日付:2025年05月06日(火)
1 これは、あなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令、すなわち掟と定めである。あなたがたが渡って行って所有しようとしている地で、それらを行うようにするためである。
2 それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私が命じるすべての主の掟と命令を守るため、またあなたの日々が長く続くためである。
3 イスラエルよ、聞いて守り行いなさい。そうすれば、あなたは幸せになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる地で大いに増えるであろう。
「これは・・・掟と定めである」(1)、「イスラエルよ、聞いて行いなさい」、そうすれば「あなたは幸せになり・・・」。
神さまが与えてくださった命令、すなわち掟と定めを、聞いて行うならば、幸せになる。神さまはモーセを通してそう言われました。
神さまは、私たちが幸せになることを望んでいてくださいます。
そのために私たちは、神さまが命じられた掟、定めを守らなければならない。そう読むこともできます。しかし幸せになるためには、この掟、定めを守れば良いのだ、と読むことも出来ると思います。幸せになるための方法も神さまは教えてくださった、と。まことに幸いなことです。
2節にこうあります。
「それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私が命じるすべての主の掟と命令を守るため、またあなたの日々が長く続くためである」。
神さまが、命令、掟、定めを与えてくださったのは、それを行うためなのですが、その目的が改めてここに二つ書かれているように思います。
・私が命じるすべての主の掟と命令を守るため。
・あなたの日々が長く続くため。
掟を行うことによって、人生の日々が長く続くため、というのは分かりやすいのですが、もう一つ先に書かれているのは、「主の掟と命令を守る」という目的です。つまり掟と命令を守るために、掟と命令が与えられた、と。守ることそれ自体が目的である、とも読めるのではないか。
愛する人に、こうすれば幸せになるよ、と言われてその通りに生きることは、喜びです。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝せよ、そうすればあなたの人生は幸せになる、と言われれば、そのように生きることは喜びです。心の貧しい者は幸いです、と言われれば、心貧しく生きることによって、幸せが訪れて来ることを期待します。そういう幸いがあります。
しかしそれと同時に、あるいはそれ以上に、愛する人の語られた言葉に従うこと自体が喜びであり、幸せである、ということもあるのではないか。
たとえば「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10・37)と言われて、そうすることによって、永遠のいのちを受け継ぐ(ルカ10・25)と期待しその言葉に従う、ということも大切ではあります。しかし永遠のいのちを受け継ぐかどうかはともかく、イエスさまがそうおっしゃられるならば、そのお言葉に従うことが私の喜びです、ということも真実ではないだろうか。そうして主が喜んでくださることが、また私の喜びであり、それこそ永遠のいのち、尽きることのない生き生きとしたいのちに生きることなのではないだろうか。
何か自分にとって得となることがあるので、あなたのことばに従いました、と言われるよりも、ただあなたのお言葉に従うことが私の喜びなのです、と言われることは、神さまにとっても喜びなのではないだろうか。