静まりの時 エゼキエル37・1~14〔新生の希望〕
日付:2025年05月02日(金)
1 主の御手が私の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
2 主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。
3 主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」
「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか」。この主の問いかけに対して預言者エゼキエルは「神、主よ、あなたがよくご存じです」と答えました。
「~できるだろうか」と問われたならば、できる、という答えと、できない、という答えが予測されるところですが、エゼキエルの答えはそのどちらでもありませんでした。神、主よ、あなたがよくご存じです、と答えたのです。
自分が判断するのではなく、その判断を主にゆだねたました。
主はよくご存じである。それに対して、「私」は知らない者である。
健やかなキリスト教信仰に生きるかどうか。この答えによって明らかになるのではないかと思います。
私たちは、なんでも自分で判断したいのです。創世記3章のアダムとエバ、創世記12章で妻に偽りを語らせるアブラハム(アブラム)、創世記27章で祝福をわがものとするイサクの家族、などなど。人類の歴史は、ことごとく「私の判断」に満ちています。そしてその判断の結果、混乱、混沌は深まるばかりでした。
十字架を前にした弟子たちもそうでした。十字架にイエスさまを磔(はりつけ)にしようとした人々もそうでした。私たちも、なんでも自分で判断したいのです。スピードが求められる現代、あるいは待つことのできない私たちは、早計な判断をします。問題は深まるばかりです。
判断をする前に、またその判断を誰かに伝える前に、じっくりと考えてみればいいのですが、それも出来なくなっています。本来感情をつかさどるべき前頭葉がゆるゆるになっているので、思ったことをすぐに口走ってしまう。
弟子のペテロもかつてはそうでした。しかし復活の主に出会ったペテロは、主の問いに対して拙速に答えようとしません。
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
(ヨハネ21・15)
エゼキエルと同じように、判断を主にゆだねます。そういうペテロにイエスさまは言われました。
イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
判断を主にゆだねる信仰、あるいは覚悟のある者に、主はご自身の働きをお委ねになるのです。