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夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある

静まりの時 詩篇30・1~12〔新生の希望〕
日付:2025年05月01日(木)

5 まことに 御怒りは束の間
 いのちは恩寵のうちにある。
 夕暮れには涙が宿っても
 朝明けには喜びの叫びがある。

 一日が悲しみの内に終わっても、再び朝を迎えたときには、喜びがある。喜びの叫び声をあげることができる。聖書は私たちに語ります。
 なすすべもなく絶望のうちに夜を迎え、床に就くことがあっても、朝には喜びに変えられている。希望の中に朝を迎えることが出来る。
 私たちが寝ている間に、何かが変わる。そこでいったい何が起こるのか。何が行われるのか。誰が働いてくださるのか。

主は あなたの足をよろけさせず
あなたを守る方は まどろむこともない。
見よ イスラエルを守る方は
まどろむこともなく 眠ることもない。
(詩篇121編3,4節)

実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる。
(詩篇127編2節)

 私たちの神さまは、私たちが眠っている間に、御業をなしてくださいます。私たちが何もなすことのできない間に、祝福の御業をなしてくださるのです。私たちが活動的なときも働いてくださることだと思いますが、多くの場合邪魔ばかりしているかもしれません。

 創世記に1章において、神さまが世界を創造されたときに、一日を数えるのに「夕があり、朝があった」と書かれています。
 私たちが一日を数えるならば、朝があり夕があり、となるのではないかと思います。朝が一日の始まりだと考えているからです。しかしユダヤでは、一日は日没とともに始まります。
 多くの場合、さあ新しい日が始まった、何をしようか、となりますが、ユダヤでは、さあ新しい日が始まった、まず寝よう、という感じです。
 まず眠る、まず何もしない、まず神さまが働かれるのに委ねる。それが主を信じる者の生き方である。礼拝においても、まず私たちが何かをするのではなく、まず主が語ってくださるのを待つ。ですから黙祷が始まりとなります。
 神さまが働かれる。私たちはそれを待ち望む。あらゆる場面において、そうであることが望まれているのだと思います。

 一日を涙で暮れることがあっても、主にある者は希望を失いません。自分ではどうすることもできない時がやってくる。だからこそ、いよいよ主が働いてくださる。なすすべがないから仕方がなしにゆだねるのではなく、なすすべがないので、いよいよ信仰に生きる時です。朝明けに備えら得ている喜びに向かって行くのです。


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