静まりの時 ローマ6・1~14〔新生の希望〕
日付:2025年04月29日(火)
1 それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。
2 決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。
キリスト者となり、すべての罪が赦されました。しかしそれはもはや一切罪を犯さないようになる、ということではありません。私たちは生涯罪を犯し続けます。
では罪を犯すごとにくよくよと後悔する人生を私たちは生きるのか。そうではありません。罪を犯すごとに、このような罪人のために主はいのちを捧げてくださったことを信じ、その恵みに感謝するのです。
では恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきなのか。これはどこか屁理屈のような気がします。罪の恐ろしさを知らない者のことばではないかとさえ思います。
パウロは、決してそんなことはない、と強く語りました。罪に対して私たちは死んだ者なのだ。死んだということは、罪を犯しても大丈夫、などということではない。罪がゆるされた、ということは「赦された」ということであって「許された」すなわち「容認された、許容された」ということでは決してない。これは当たり前といえば当たり前なのですが、人間の罪は深く、このような屁理屈をもって、罪を犯す自分を容認してしまう、あるいは容認してもらいたいと願う、ということが起こってしまう。
これは義認信仰の誤解から生まれてくる、あるいは曲解から生まれてくることではないかと思います。
パウロは言います。「罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか」。
これは罪を犯してはいけない、といっているのとは少し違います。罪のうちに生きることなどできない、と言っているのです。キリスト者が罪を犯すのは、まるで魚が陸で生きようとするようなこと、草原で生きる動物が水中で生きようとするようなものである。息苦しくって仕方がない。
罪を犯すことを容認しているキリスト者は、せっかく救われたのに、その喜びを満喫せしていない、なんともったいないことか、ということなのです。
さてここであらためて罪とは何か、を考えておきたいと思います。
聖書は罪は創世記3章において人類に入ってきた、といいます。そこで語られている罪とは、神よりも自分を神としてしまうことでした。倫理道徳的な罪、犯罪、愛のなさ、などなど、あらゆる罪はその根底に「自分を神としてしまう」ということが問われなければなりません。さらには、愛に生きているということ、善に生きているということも、それだけで罪とは違うとは言い切れません。私たちは自分を誇るために愛に生き、善に生きようとさえしてしまいます。そういう罪、それを偶像礼拝というのですが、そこから私たちは救われたのです。
ではどう生きるのか。
11 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
神さまに対して生きる。これに尽きると思います。もちろんわがままに生きる、何があってもわが道に生きる、などということではありません。それこそ、究極的に自分を神にしていることです。神さまに対してい生きる、ということは、広い心で、ありのままの現実の中に、謙遜に、へりくだって生きることです。