静まりの時 第一ペテロ2・1~10〔新生の希望〕
日付:2025年04月28日(月)
1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
キリスト者は、成長し、救いを得るように招かれています。
救いを得る、というと、今はまだ救われていないのか、と疑問に思うかもしれませんが、この場合、救いの完成と言い換えてもよいように思います。私たちは「すでに」と「いまだ」の間に生きています。生まれたばかりの乳児は、完全に人間ですが、しかし人間となるための成長が期待されています。それとよく似ています。
成長するために「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい」といいます。「純粋な、霊の乳」とはいったいなんであるのか。「聖書のことば」と考えてよいように思います。しかし聖書のことばであれば、そう書けばよいようなものですが、聖書はそうは書いていません。続きを読みますと、4節に「主のもとに来なさい」とありますので、主ご自身と考えてもよいかもしれません。主のもとに来る、それはすなわち主が語られるお言葉の一つひとつを慕い求めることでもあります。
聖書の神さまは、語る神、です。神さまに向き合うということは、この語られる神に向き合うということです。物言わぬ偶像ではないのです。主が語ってくださる、そのお言葉に耳を傾ける。そうしてその言葉に心が探られる、自らが変えられていく。そうして信仰は成長します。聖書は、古文書のように閉じられた文書ではなく、今私に語られる神さまの言葉です。
「すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」。霊の乳を慕い求めずに、その逆をしてしまうのが人間でもあります。霊の乳ではなく、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を、まるで自分の人生を養い、成長させるかのように思うのです。不思議なことですが、罪人である人間には起こることなのだと思います。
信仰者が、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口などに生きてしまう。おそらくそのような生き方をしてしまうのは、けっして悪の心からではなく、むしろ自分では善と思ってのことではないか。自分では善の心を持っているつもりでも、深く考えてみれば、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口になってしまっている。私たちは自分を吟味して、それらを捨て去らなければならない。そうして霊の乳を慕い求める。