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マルコの福音書1章13節考

マルコの福音書1章13節考

2025年04月28日(月)

マルコの福音書1章13節は、小さなことですが、翻訳の仕方に違いがあります。

まず従来の翻訳を見てみます。

【新改訳改訂3】

「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。」

【口語訳】

「イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。」

【新共同訳】

「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」

これに対して現在最新の訳を見てみます。

【新改訳2017】

「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。」

【共同訳2018】

「イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。」

先の三つの翻訳、新改訳改訂3,口語訳、新共同訳では、野の獣とともにおられた、という文章に「が」が付いています。新改訳改訂3を例に考えてみますと、「野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた」ですから、野の獣とともにおられたけれども、御使いたちがイエスに仕えていた、と読めると思います。つまり、野の獣の脅威がある中にあっても、御使いたちが仕えていたので、守られていた、と解釈できると思います。野の獣は、依然、脅かす存在です。

これに対して新しい訳では、「が」がついていません。原文ではどうか、というと、原文では「カイ」という接続詞が書かれています。これを「が」つまり、「しかし」「けれども」と訳すのか、それとも、単に、アンド(and)、の意味とするのか。その違いです。英語の聖書ではことごとく、アンド(and)、となっています。

では、この「が」ではなく、単純に、アンド(and)と訳すとどうなるのか。新改訳2017で考えてみましょう。「イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた」。野の獣とともにおられる。そして御使いたちが仕えている。その情景を思い描きますと、野の獣であるにも関わらず、まるで飼い猫のように、そこに寝そべっている。そんなことを想像します。野の獣は脅威ではなくなっている。脅かす恐ろしい存在ではなくなっている。

イザヤ書のことばを思い起こします。

1 エッサイの根株から新芽が生え、

その根から若枝が出て実を結ぶ。

2 その上に主の霊がとどまる。

それは知恵と悟りの霊、

思慮と力の霊、

主を恐れる、知識の霊である。

3 この方は主を恐れることを喜びとし、

その目の見るところによってさばかず、

その耳の聞くところによって判決を下さず、

4 正義をもって弱い者をさばき、

公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。

口のむちで地を打ち、

唇の息で悪しき者を殺す。

5 正義がその腰の帯となり、

真実がその胴の帯となる。

6 狼は子羊とともに宿り、

豹は子やぎとともに伏し、

子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、

小さな子どもがこれを追って行く。

7 雌牛と熊は草をはみ、

その子たちはともに伏し、

獅子も牛のように藁を食う。

8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、

乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。

「狼、豹、若獅子、熊、獅子、コブラ、まむし」と「子羊、子ヤギ、子牛、肥えた家畜、小さな子ども、雌牛、雌牛の子たち、牛、乳飲み子、乳離れした子」がともに憩っている、戯れている、遊んでいる。このイザヤ書の預言が、イエスさまが受けられたサタンの試みの最中(さなか)に実現している。天国がそこに実現している。そう読むこともできるのではないか、と思います。イエスさまがともにいてくださるというのは、このように、天の御国に生きることなのです。


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