静まりの時 コロサイ3・1~4〔復活の信仰〕
日付:2025年04月25日(金)
1 こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
2 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
救われる、ということは、キリストとともによみがえらされた、ということです。よみがえらされた者は、上にあるものを求めます。上にあるものを思います。上にあるものとは何か。そこにはキリストが神の右の座に着いておられますから、キリストの支配を求める、キリストご自身を求めること。
しかし救われてもなお、地にあるものを思ってしまう。それが私たちキリスト者の実態である。思いが自動的に地にあるものから、上にあるものへと変化するわけではない。このように命じられ、その命令に、自分自身を従わせる、という心が必要となってくる。
上にあるものを求める。思う。その指針が5節以降に詳しく記されています。まずは倫理的な行動、精神的な健やかさ、対話の健全さ、人間関係の健やかさ、配慮、礼拝のありかたなどなど。一口に言えば、神さまへの愛と、隣人への愛に生きる、ということでしょうか。
このような生き方は、地上のものを求めていては生まれないもの、「この世に生きる」ということに終始していては生まれないものです。
「この世に生き」てしまっていた時は、「『つかむな、味わうな、さわるな』といった定めに縛られる」(コロサイ2・21)生き方をしていました。これは上にあるものを求める生き方ではなかった、ということです。
ということは、3章5節以降に記されている新しい生き方も、もし定めのように、つまり戒律のように、縛られることになるとすれば、結局、地上のことを思う生き方になってしまう。
「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」(3・11)ということが生み出す、喜び、愛、平安、感謝、賛美、がそこにある。それが大切なのではないか。