静まりの時 使徒13・26~41〔復活の信仰〕
日付:2025年04月24日(木)
30 しかし、神はイエスを死者の中からよみがえらせました。
・・・
37 しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちて滅びることがありませんでした。
38 ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、
39 この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。
イエスさまは、自力でよみがえられたのではなく、神さまによってよみがえらせられました。それはイエスさまの死が完全な死であったことを明らかにしています。またイエスさまの十字架の死が、神さまの承認されるところであった、すなわち十字架は神さまの御業であったことを明らかにしています。
このよみがえらされたお方イエス・キリストを通して、罪の赦しが宣べ伝えられています。このお方を信じることによって私たちはみな義と認められるのです。
「義と認められる」。新改訳第3版では「解放される」と訳されていました。もともとのギリシャ語は「ディカイオー」、正しいものとして取り扱う、正しいと宣言する、解放する、清めるなどの意味があり、聖書においてとても大切なことばです。
解放されるというと、自由になる、ということですから、罪の中にある、ということは、囚われの状態である、ということを現しています。信仰に生きるということは、真実に自由になることなのです。
新共同訳や共同訳2018では「義とされる」と訳しています。新改訳2017のように、義と認められる、という訳には、罪人であるけれども無罪放免、義と認められる、ということで、依然罪を犯し続けることが容認されているような印象が付きまといます。それはある面では事実です。しかしこのディカイオーという言葉には、先にも書きましたが清められるという意味が含まれています。ですからやはり罪を犯さないようになる、清くなっていくということが期待されていると理解することも大切ではないか。
それで義と認められる、ではなく、義とされる。文字通り、義人になっていく、とも読むべきである。信仰生活は、イエスさまを信じて罪赦され義と認められたので、何をしていても、どんな生き方であっても大丈夫、などということではない。文字通り義とされる、清められていく、神さまにふさわしいものと変えられていく、という道なのです。
ではどのように義とされていくのか。自助努力によってなのか。聖書は、それもこのお方、すなわち「よみがえられた」イエス・キリストによって義とされるのだ、と語ります。
私たちは日々イエスさまとの豊かな交わりをいただき、それによって、義とされていく。よみがえられたのですから、きょうも生きて私とともにあゆんでくださる。復活のいのちによって、私を導き、私を造り変えてくださる。そう「信じる」。このお方を「信じる」ということの中には、そういう信じ方が期待されているのではないか。
私たちは義とされているだろうか。それとも単に義と認められているだけなのだろうか。
以前にもお伝えしましたが、NHKラジオの「宗教の時間」で、この4月から9月の予定で、「傷ついた癒し人となる ヘンリ・ナウエンの歩みと言葉」と題して、上智大学の酒井陽介司祭がお話しされます。月一回です。「NHKラジオ らじるらじる」で聞くことが出来ます。
スマホで「NHKラジオ らじるらじる」のアプリをインストールし、宗教の時間、で検索するとすぐに出てきます。テキストもサンミュージックなどにありました。興味があればお聴きくださればと思います。
とこでこのヘンリ・ナウエンの名前の日本語表記は、時代によっていろいろな表記がされています。私の手元にあるだけで、H・J・M・ヌーエン、H・J・M・ナウエン、ヘンリ・ナーウェン、最近はだいたい、ヘンリ・ナウエン、になっているようです。
同じ本でも翻訳年で違っていたりしています。
(2冊あるのは、コレクションしているわけではなく、たまたまいただきました)