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私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです

静まりの時 第一コリント15・1~11〔復活の信仰〕
日付:2025年04月23日(水)

3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

 様々な問題を抱えることになったコリントの教会の根本的な問題の一つは、伝えられた福音を忘れてしまったことにあるとパウロは指摘しました。それであらためて福音とは何かをここで振り返りました。
 私たちが信じている福音とは、十字架と復活、です。この二つのことです。これが最も重要なことなのです。最も重要なことである、ということは、そのほかのことは、最も重要なこととは言えない、つまり多少あやふやであってもよい、あるいは色々な立場があってもよい、ということです。
 十字架と復活は、セットです。どちらか一方だけを語るならば、両方とも意味のないものになります。十字架を信じることは難しいことかもしれませんが、それでも、復活に比べたら多少は受け入れやすいことなのではないか。だれでも十字架につけられれば死にますから、それ自体受け入れがたい奇跡というわけではないように思われます。しかし十字架が奇跡であるとすれば、それは神の死だからなのだと思います。十字架の上で死なれたイエスさまが、単に人間と思えば、罪のない人の死であるということから確かに偉大なことかもしれませんが、私たちの救いとはあんまり関係のないことのように思えます。しかし神の死である、ということが分かれば、私の救いに直結していることが分かります。まさに奇跡です。
 ただそれだけならば、つまり身代わりの死ということだけであるならばいったい救いはどこにあるのでしょう。
 復活は、この十字架こそ、神のみこころであったことが明らかにされたことであり、いまも生きて働く神さまが、私とともにいてくださることを語っています。復活こそ私たちに救いを語っているのです。こちらのほうが重要なのです。もちろん十字架は大切でないということではありません。十字架と復活はどちらも欠かすことのできない福音なのです。

 さてここでさらに重要なことは、パウロが「私も受けたことであって」と語っていることです。福音は受け継がれてきたことである。自分が独自に開発したことではない。個人的な霊的体験に基づいて成り立っているものではない、というのです。
 この世には異端というものがあります。それは三位一体の教理を中心としたキリスト教信仰に対して、異なった教理を主張するグループを指しています。しかし異端というわけではないけれども、どうもキリスト教というにはなにやら違う感じがする、というものがあります。その中にはこの、「私も受けたことであって」ということが不明確である、ということがあるのではないか。独善的なことばが散見されるのではないか。
 使徒信条において「公同の教会を信ず」と告白する教会は、私たちの教会こそ真理を語っている、他の教会は真理を語っていない、と主張することをしません。様々な違いがあるかもしれない。しかし同じ主にある教会であることを謙遜に受け入れ、ともに宣教のために協力していきます。私も受けたことなのですから。


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