静まりの時 マタイ26・1~16〔十字架の道〕
日付:2025年04月16日(水)
1 イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
2 「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
「これらのことばをすべて語り終える」と、主はあらためて十字架に自らがかかることを弟子たちに伝えられました。主は「引き渡される」と言われました。この言葉は、これ以降何度も聖書に登場する言葉です。
十字架の出来事は、全能である神が、その全能のすべてをかけて、自らを引き渡された、すなわち自らの手から自らのすべてを離された出来事です。
3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、
4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。
5 彼らは、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた。
イエスさまを十字架につけようと画策する人たちは、それを祭りの間を避けようとしたと言います。しかし実際は祭りの真っただ中で行われることになりました。まさに十字架は神さまの御手のわざでした。
6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。
11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。
12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。
13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
何が彼女をこのように駆り立てたのか。さまざまな推測がなされますが、聖書はそれについては沈黙します。しかし何か理由があるから神さまに献げ物をするのか。神さまへの献げ物、感謝、礼拝は、理由がなければできないことなのか。本来は理由などなくても神さまへの感謝にいきるのではないか。あるいはすでに数えようとすればいくらでも数えることのできる恵みを私たちはいただいているのではないか。そうであれば、どれほどの感謝を献げても献げつくすことはありません。
憤慨する弟子たちは、私たちの姿です。理屈に合わないこと、もったいないこと、無駄なこと、効率の悪いこと、が目の前で行われている。それを正したい。まさに正義感からのことばです。義憤です。
しかし主は、貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます、と言われました。つまり貧しい人たちへの施しならば、いつでもできるのではないか、ということでしょう。それをせずになぜ他人の財産の使い道についてあれこれ批判するのか、と。私たちは、他人の財産の「良い」使い道を考えてあげるのが得意なのです。自分の手の中のものもそのように使うだろうか。テレビを見ていると大きなお金が動いている。それをみて、貧しい人に少しでも施しをすればよいのに、と思う。しかしいざそれが自分のものであれば、果たしてその良い使い方をするだろうか。
14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
15 こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
16 そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。
ユダは「そのとき」出かけて行って、主を裏切る計画を進めました。自分の考えた良い使い方を否定されたことがユダを動かしたのだろうか。自分の正義感が否定されたことに我慢ならない心が、主への裏切りを進めたのだろうか。そうとすれば、まさに義憤に駆られたひとりの罪びとが、主を十字架につけたことになります。私が義憤に駆られたとき、主は十字架の苦しみをお受けくださっています。その義憤は果たして、本当に義憤なのだろうか。隠された自己中心なのではないか。主の悲しみ、苦しみが見えるだろうか。