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めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか

静まりの時 マタイ23・37~39〔十字架の道〕
日付:2025年04月15日(火)

37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」

 イエスさまは十字架にかかられるまえ、エルサレムに向かって嘆かれました。
 神さまは幾度も「めんどりがひなを翼の下に集めるように」エルサレムの子たちを集めようとされました。どこに集めようとされたのか。この文章では不明確な感じもしますが、ただ集められたというよりも、ご自身のもとに集めようとされたのだと思います。
 神さまのもとに集められる。それが人間にとって幸いである。あるいは幸いを生む。しかし人間はそれを好まない。望まない。
 その結果「おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる」。

 神さまのもとに集められることは、人間には幸いであるにも関わらず、どうして人間はそれに従わず、自分勝手な道に行こうとするのか。
 ひながめんどりの翼の下に集められることは、ひなにとっては平安なはずなのに、ひなはいつもそこからそとに飛び出ようとする。どうしてか。創世記3章を見ると「神のようになる」という蛇の誘惑のことばが人間には魅力的なのだと思います。人間はその魅力に勝てない。結果、神のようになろうとして、神の御翼のもとから飛び出ようとする。

「『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない」

 祝福あれ、主の御名によって来られる方に、という言うときとは、主イエスさまを心の王座にお迎えして、主を礼拝する時です。その時が来るまで神さまを見ることがない。ということは、主を礼拝するときは、神さまを見る時、です。
 私たちは主を礼拝するとき、神を見ている。主を礼拝するとき、いったい何を見ているのか。神を見ているだろうか。それとも別のものを見ているだろうか。神を見る礼拝を献げているだろうか。

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田んぼにも水が入り、桜も終わりかけています。


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