静まりの時 第一ヨハネ2・1~3〔あがない〕
日付:2025年04月09日(水)
1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。
2 この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。
「これらのこと」。ヨハネによって書かれたこの手紙、さらには聖書は、主を信じた者が「罪を犯さないようになるため」に書かれたのである、と聖書自身が語ります。
人間は罪を犯すものです。しかし主を信じた者にはひとつの目標が与えられました。それは「罪を犯さないようになる」という目的です。
しかしどうしても罪を犯してしまいます。ですから自分も含めて「もしだれかが罪を犯す」という事態に出会います。そのときには、なんで罪を犯したのだ、と責めるのではなく、「御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられる」と安心するのです。罪を犯さないように生きる時、私たちは自分のなかに「義」をつくりはじめてしまいがちですが、キリスト者は、どこまでも「義」はイエスさまにあることを告白します。イエスさまこそ、私たちの罪のための「宥めのささげ物」です。
罪を犯さないようになる、ということと、主によって罪が赦されている、ということがキリスト者を導いている。それがキリスト教信仰です。
聖書はさらに、イエスさまは私たちのためだけでなく、「世全体の罪ための」宥めのささげ物であると聖書は語ります。
「私たち」とはこの場合、ヨハネであり、このヨハネの手紙を最初に読んだ教会のことですが、それは主を信じているキリスト者すべてを指しています。しかしヨハネは、キリスト者だけにとどまらず「世全体」、すなわちまだイエスさまを知らない人たちのためにも、イエスさまは「宥めのささげ物」となられたと語ります。私たちが出会うすべての人は、イエスさまがいのちを捨てるほどに大切な人たちなのです。