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罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません

静まりの時 ヘブル10・11~18〔あがない〕
日付:2025年04月08日(火)

12 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、
13 あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。
14 なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。
・・・
18 罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。

 十字架と復活のあがないを信じ受け入れ、洗礼のめぐみにあずかった者は、「聖なるもの」とされ「永遠に完成」されました。キリスト者は「永遠に完全な者」とされました。それでもはや「罪のきよめのささげ物」はいりません。無用なのです。
 それでキリスト教会では、旧約聖書において行うように命じられた「罪のきよめのささげ物」をしません。礼拝において、動物の犠牲を献げることをしないのです。
 しかし動物の犠牲は確かにささげることをしなくなりましたが、さまざまな意味で「罪のきよめのささげ物」を本当にささげなくなっているだろうか。

 イエスさまを信じて完全な者としていただいたというけれども、私たちは依然罪びとであり、日々罪を犯します。イエスさまを信じて聖書を学ぶようになってより罪の意識が深まりました。自分の罪を知らされるごとに、その罪意識にさいなまれるということも起こってきます。イエスさまを信じる前よりもより深く、より先鋭に罪意識にさいなまれます。こんなことなら、イエスさまを信じる以前のほうが気が楽だった、などということにまでなってしまうこともあるかもしれません。聖書はそのような信仰生活を送るように私たちを仕向けるのだろうか。

 ここに「もう罪のきよめのささげ物はいりません」と語られています。確かに動物のささげ物はしないかも知れない。しかし日々自分をさいなむというささげ物をしなければいられないとすれば、それは聖書の語るところの信仰生活ではないのです。
 もう自分をさいなむというささげ物はいらないのです。救われた喜びに生きていればよいのです。

 とすると、礼拝の中での懺悔も、悔改めも、この「救われた喜び」によって導かれていることになります。一所懸命に悔改め、懺悔するのは、それによって赦しをいただくためではなく、どんなに大きな罪を赦してくださったかを味わうためとなります。
 自分の罪を見せつけられるごとに、こんな罪をも赦してくださったのか、と主に感謝するときが、悔改めの時なのだと思います。自分の罪を見せつけられるとき、私だったらもうこんな罪びとにはとっくの昔に愛想をつかしているだろう、しかし主はこんな罪をも赦してくださったのだ、なんと大したものだろう、主の愛は深い、と感激することが、懺悔であり悔改めです。アウグスティヌスの『告白』は、昔の訳の一つに『懺悔録』というのがあったようですが、むしろ『賛美録』というほうがふさわしいと、ある先生はおっしゃっておられました。アウグスティヌスにとって、懺悔は自分をさいなむことではなく、まさに神さまへ賛美をささげることだったのです。


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