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敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です

静まりの時 ヘブル7・26~28〔あがない〕
日付:2025年04月07日(月)

26 このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
27 イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。
28 律法は、弱さを持つ人間たちを大祭司に立てますが、律法の後から来た誓いのみことばは、永遠に完全な者とされた御子を立てるのです。

 私たちはイエスさまこそまことの大祭司であり、このまことの大祭司であるイエスさまこそ、私たちにとってまさに必要な方であることを信じています。
 私たちの信仰生活が平安の内に導かれていくために必要なものとはいったい何であるのか。なくてはならないものとはいったい何か。今朝の個所は「イエス・キリスト」ご自身のみである、と語っているのだと思います。
 イエスさまこそ、私たちの罪のためにご自身を十字架にささげられたお方です。ただ一度でそのことを成し遂げられました。ただ一度で成し遂げられたということは、私たちはこのお方によって、過去、現在、将来の罪一切が赦された、ということです。
 このイエスさまが大祭司となって立ってくださったのですから、もはや「弱さを持つ人間たちを大祭司に立てる」必要がありません。それは律法主義に生きようとするものが立てたことなのです。
 私たちは日々イエスさまを主と仰ぎ、大祭司として贖い御業を完全に成し遂げてくださったこのお方に支えられて生きていきます。
 そのためにも「弱さを持つ人間たちを大祭司に立てる」ことから自由になりましょう。神さまは目に見えません。目に見えないので、どうしても目に見える存在に頼ろうとします。信仰生活が健康に前進するために、必要なお方はイエスさまだけであるにも関わらず、どこか他のキリスト者、あるいは奉仕者を、まるで大祭司のようにしてしまうことがるかもしれません。しかし人間である限り「弱さ」を持っているのです。期待に応えてくれないと思うことも出てくるはずなのです。そうして人間につまずくということが起こってくる。信仰者は、他の信仰者のつまずきにならないようにするべきだとは思いますが、そもそも、大祭司になり得ない弱い人間をまるで大祭司のようにしようとすること自体に問題があるのではないか。
 プロテスタントの教会は、全信徒祭司、という教理を持っています。互いに祭司であるというのは、誰かを祭司とすることではなく、お互いに弱さを持つ者であることを認め、ともに大祭司であるイエスさまを見上げるところに成り立つものだと思います。


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