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神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます

静まりの時 第二コリント7・5~10〔悔改めへの招き〕
日付:2025年04月05日(土)

5 マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。
6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。
7 テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。

 パウロはこの第二コリントの手紙を書き送るまえにもコリントの教会に手紙を書きました。その手紙は、少なからず厳しい手紙だったようです。牧師が一つの教会に対して厳しい手紙を書かなければならない。それは受け取る教会においても心悩ませる事態ですが、書き送ったほうの牧師も深く悩むものです。
 自分のことばをちゃんと受け止めてくれるだろうか。厳しいことばを書いてしまったけれども、それで教会を離れてしまった人がいるのではないだろうか、などなど。人びとの気に入る言葉、耳障りの良いちやほやとした言葉ばかりを語っていればよい、というのであれば、牧師の仕事は楽なのですが、ことは信仰に関わること、いのちにかかわることなので、時に厳しいことばも語らなければならない。手術をすれば直る病気と知りながら、メスをふるうと患者に負担があるだろうと、事なかれで、患者の喜ぶであろう言葉しか言わない医者がいるとすれば、それは結局患者を殺してしまうことになる。嫌われても、拒否されてもいうべきことは言わなければならないのです。
 しかし牧師も人間ですから、そんな厳しい手紙を書けば、その結果が気にかかります。パウロもずいぶん悩んだようです。それで、テトスをコリント教会に送りました。テトスはコリントの教会の様子を携えてパウロのもとに帰ってきました。テトスの報告は、パウロを深く慰めました。コリントの教会の人たちは、パウロのことばを信仰をもってしっかりと受け止めたのです。パウロが気をもんでいたことは杞憂であったことが分かったのです。それでパウロは喜びました。ここに牧師の喜びがあります。

8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、
9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。
10 神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

 完璧な人間はどこにもいません。大なり小なり問題を抱えています。罪を犯します。間違った考え方を持っています。ですから、ときに他者からの言葉を聞かなければなりません。軌道修正していただかなければなりません。厳しいことばを聞かなければならない。それは多くの場合、悲しみを起こします。
 パウロはここで、単に悲しむことと、悲しんで悔い改めることを区別しています。悲しんで悔い改めることは、神のみこころに添って悲しむことであり、それは後悔のない、あるいは後悔とは無縁で、救いに至る悔い改めを生じさせる悲しみである、といいます。
 単に悲しむこと、後悔することは、どこまでも自分が中心です。自分の正しさにしがみつき、それをどうにか保とうと腐心することです。
 それに対して悔い改めることは、どこまでも神さまに向かって行くことです。自分の正しさを手放し、ひたすら神さまの正しさの中に、自らのすべてを委ねていくことです。もはや自分の体裁を保つとか、自分の正しさを保持しようなどということから自由にされ、神さまのみこころだけを求めていくこと。それこそ救いをもたらすものなのです。
 どこまでも自分中心の後悔は死をもたらします。しかしそんな自分を手から離し、みこころに添った悲しみに生きること。すなわち悔い改めることは、いのちに至る道へと私たちを招きます。

 イスカリオテのユダとペテロ。同じようにイエスさまを裏切った弟子ですが、ユダは後悔し自ら命を絶ちました。しかし主のみことばを思い出したペテロは主の弟子としても道を再び歩みだすようになります。後悔と悔い改めは似ているようで全く違うものなのです。悔い改めとは、神のみこころに沿って、すなわち主のみことばを思い起こしながら悲しむことです。

3 そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。
4 「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」
5 そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。
(マタイ27・3~5)

73 しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」
74 するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。
75 ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。
(マタイ26・73~75)


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