静まりの時 エレミヤ3・11~14〔悔改めへの招き〕
日付:2025年04月02日(水)
13 ただ、あなたはあなたの咎を認めよ。
あなたはあなたの神、主に背いて、
青々と茂るあらゆる木の下で、
他国の男と勝手なまねをし、
わたしの声に聞き従わなかった。
──主のことば。
聖書は、人間の罪をさまざまなかたちで表現します。ここでは「咎」「主に背いて」、そして「青々と茂るあらゆる木の下で、他国の男と勝手なまねをし」。
これは、偶像礼拝のことですが、実際に性的に乱れた行為がともなうような宗教行事が行われていた、ということかもしれません。新約聖書におけるコリントの町にもみられた問題です。
実際にどのような行為が行われていたかはともかく、まことの神さま以外のものへの礼拝行為を、聖書はこのような「姦淫」になぞらえて表現します。偶像礼拝とは姦淫なのです。
姦淫とは何か。共同訳2018ではこの節は以下のように訳されています。
「ただ、あなたの過ちを認めよ。
あなたの神である主に背き
すべての生い茂る木の下で
他国の男たちに愛を振りまき
私の声には耳も傾けなかったことを――主の仰せ。」
姦淫とは「愛を振りまく」行為でもあると。
私たちは、愛されなければ生きていけません。だれしも愛されることを求めています。この愛は無償の愛でなければなりません。無償でなければ、そもそも愛ではありません。神に出会うということは、この無償の愛に出会うことです。その愛に出会い、その愛に生かされていることです。そしてその愛のみに生きていくことです。そうして人間は健やかに生きる者へと変えられます。
しかしまことの神さま以外の愛はみな無償ではありません。有償なのです。有償なので、何かを差し出さなければなりません。ここでは「愛を振りまく」行為が求められるのです。
実は、要求されてではなく、人間は愛されたいがために、愛を振りまくことさえしてしまいます。これは不幸な生き方であり、自分を破壊し、また周りにいる人をも破滅に向かわせてしまいます。
愛を振りまかなければいられないような心を神さまにいやしていただかなければなりません。それが悔改めるということです。悔改めるということは、いやされるということなのです。愛を振りまいて人の気をひかなければいられないような生き方から180度変えられて、神さまの懐の中に抱かれて安心することなのです。