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待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう

静まりの時 民数記9・1~14〔信仰の生活〕
日付:2025年03月29日(土)

6 しかし、人の死体によって汚れていて、その日に過越のいけにえを献げることができなかった人たちがいた。彼らはその日、モーセとアロンの前に進み出た。
7 その人たちは彼に言った。「私たちは、人の死体によって汚れていますが、なぜ、イスラエルの子らの中で、定められた時に主へのささげ物を献げることを禁じられているのでしょうか。」
8 モーセは彼らに言った。「待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」

 何らかの事情で「人の死体」に触れた者は汚れていることになりました。それが拡大解釈されるようになり、過越のいけにえを献げるということにも当てはめられるようになりました。結果、人の死体に触れた者は、過越のいけにえを献げることができなくなりました。
 それはおかしいのではないか、とモーセとアロンに訴える人が出てきました。
 モーセは即答を避け、主に祈りました。そして主からの答えを告げました。

 何らかの責任を負うようになったときから、訴えに対して判断を迫られるという場面を経験します。小さなことから大きなことまでさまざまです。即答できることもあればそうでないこともあります。簡単に答えられることもあれば、答えは分かっていてもそれを告げるのに躊躇するということもあります。
 いずれも「主に祈る」ということが大切なのだと思いました。どんなに正しく見えることでも、それが主の御心であるのか、そうでないのかは別のことかもしれません。そういうことを冷静に考え共有できる共同体でありたいと思います。

寄留者でも、この国に生まれた者でも、あなたがたには掟は一つである。」

 ダブルスタンダードということではなく、主ご自身は生きて働いておられるお方なので、その方のお心を大切にする、ということです。主は一つなのです。

 しばらく妻とリトリートに出かけました。以前にも行ったことのある施設です。富士の裾野に広がる広大な丘に、茶畑と教育施設を兼ね備えた黙想の家で、教職者たちと静かな時間を過ごしました。


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