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キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい

静まりの時 第一ペテロ4・12~16〔試練の道〕
日付:2025年03月17日(月)

12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。
13 むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。

 苦難、を、試練、といいます。苦しみ、困難は、そのままでは人生を破壊するもののようですが、それが「キリストの苦難」とひたび受け入れるならば、「試練」となり、喜びとの関係の中でとらえることが出来るようになる。
 苦しみを不審に思ってはならない。想定外のこととしてはならない。むしろ人生における常であることを、正面からとらえ直していかなければならない。苦しみのないのが人生ではなく、人生には苦しみがあることをノーマルなこと、むしろ苦しみがあるからこそ人生であるととらえなければならない。
 喜びはどこから生まれるのか。キリストの苦難と切っても切れない関係の中に生まれてくる。だから苦難が激しければ激しいほど、喜びが増えていく。
 この喜びとはなんだろう。この世のあたえる喜びとは、根本的に異質なものである。教会はこの、喜び、を語らなければならない。発信しなければならない。そうでなければ教会でなくなってしまう。
 苦難をも喜ぶ目的は、「キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶため」である。キリストの栄光が現れるとき、とはどのようなときなのか。再臨のときか、千年王国、大患難時代・・・。いずれも大切な理解だと思います。
 栄光とは、旧約聖書のことばで「重たい」ということばである、と説明されます。キリスト栄光、というと、まさに神さまがその存在感を明らかにしてくださるとき。
 キリストがその存在感を明らかにしてくださったならば、主にあるものは、手放しで喜ぶはずである。しかしここでは、その喜びが、歓喜にあふれた喜びとなるために、日ごろから、苦難を試練として、喜ぶ練習が必要である、というのです。
 苦難を試練として、喜ぶ練習ができていないと、いざキリストの栄光が現れた時に、その喜びがいまいちにものになってしまう。現世の喜びに終始していて、試練を喜ぶ訓練ができていない、修練ができていないと、かの日に喜ぶことが希薄になってしまう。喜びが希薄になってしまうと、待ち望みができない。あるいは喜びのときを見逃してしまう。

 まさに再臨の備えとして、今の苦難を試練として、喜びの練習をしなければならない。それがキリスト者である。

 あるいはキリストの栄光が一番輝いた時とは、十字架の時である。十字架に出会って喜びためには、苦難を試練ととらえる心が必要である。苦難を試練ととらえ、喜びを生み出ししてくことができると、十字架にキリストの栄光を見ることが出来る。十字架を喜ぶことが出来る。歓喜にあふれて喜ぶことができる。


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