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そこに大路があり、 その道は「聖なる道」と呼ばれる

静まりの時 イザヤ35・1~10〔荒野の道〕
日付:2025年03月07日(金)

8 そこに大路があり、
 その道は「聖なる道」と呼ばれる。
 汚れた者はそこを通れない。
 これは、その道を行く者たちのもの。
 そこを愚か者がさまようことはない。
9 そこには獅子もおらず、
 猛獣もそこに上って来ることはなく、
 そこには何も見つからない。
 贖われた者たちだけがそこを歩む。

 荒野、荒れ地、砂漠が擬人化されて、主による世界の回復がうたわれています。主による贖いの御業は、人間の心の回復にとどまらず、世界、すべての被造物の回復です。
 あるいは救われた者にとっては、荒野も荒れ地も砂漠も、それらがそのままに花の咲き乱れる喜びの地と見える、ということか。

 主を信じ贖われた者は、大路を歩んで帰還します。直接的には捕囚からの帰還を指していると思いますが、罪から贖われた者にとっては、それは天国への帰還を感じます。

 8節に「汚れた者はそこを通れない」とあります。他の訳では「汚れた者がその道を通ることはない」と訳されていました。「通れない」と「通ることはない」。意味は同じですが、前者は汚れた者が通ろうとしても通ることが出来ない、という感じですが、後者は、神さまが道の両側を強力な防御壁で覆っていてくださるので、汚れた者はどうあがいてもその道を通ることはない、という感じです。前者は、道の外側で汚れた者の存在を感じさせますが、後者は道の外側のことなど一切感じないほどの安心感があるようで神さまの守りをより深く感じます。

 9節の「贖われた者たちだけがそこを歩む」は、他の訳では「解き放たれた人々がそこを進み」と訳されていました。双方とも、救われた者が大路を歩むという意味ですが、前者の「だけ」という言葉が、やや特権的な意味を感じさせるのに対して、後者はそれがないので、特権というよりも神さまの一方的な憐れみによって歩むようにしてくださったという感じがします。

 先日も参加した黙想会では、聖書をゆっくりと、文節で立ち止まりながら、思い巡らしながら幾度も音読、黙読、書き写す、などしながら読みます。聖句の意味だけではなく、神さまの息吹を感じようとします。
 最近AIによる音声でニュースの報道がなされる場面があります。確かに情報としてはそれで十分なのかもしれません。しかし私たちは語られる言葉の中に、語る人の愛や喜びなどを敏感に察知して、語られる言葉を聞こうとします。あるいは聞くことになります。怒ったような声で、愛している、と言われても愛は感じられません。悲しみのニュースは、笑い声では伝わりません。
 書かれたことばである聖書を、私たちが朗読するときも、神さまの愛が感じられるような朗読。声や語る表情。神さまが喜んでくださるような読み方、語り方、聞き方を求めて行きたいと願っています。


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