よきサマリヤ人
ルカの福音書10章25~42節
強盗に襲われ倒れている人(おそらくユダヤ人)を見て、神さまに仕えているはずの祭司やレビ人は、その倒れている人の反対側を通り過ぎて行ってしまいました。それに対して、ユダヤ人から嫌われていたサマリア人は、倒れている人をあわれみ介抱し懇切丁寧に助けました。
このサマリア人は、自分を毛嫌いしているはずのユダヤ人を、どうしてあわれむことが出来たのか。
33節は以前の訳では以下のようになっています。
「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、」
途中という言葉から、旅の途中であるにも関わらず、その旅を一時中断して、この倒れている人に関わった、というふうに私は読んできました。
新しい訳では以下のようになっています。
「ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。」
口語訳、新共同訳、共同訳2018でも同じなのですが、「旅をしていた」というのが、サマリア人の紹介として記されているように感じます。つまり旅をしていたサマリア人だったので、あるいは旅をしていたサマリア人だったからこそ、道端で倒れている人に目を留め、介抱することができた、と理解しても良いのではないか。
旅をする。人生が旅であることを知っている時、私たちも、隣人へ目を向けることが出来、その必要に答える心が与えられるのではないか。
旅は、大きな目的を設定しつつ、しかし小さな出会いは偶発的であることを知り、それを喜び楽しむように招かれています。偶発的な出会いを想定しないならば、それは旅ではありません。
天国を目指して旅をする私たちは、日々、主が用意していてくださる偶発的と見える出来事を楽しみます。
「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」
(ヘブル11・13)