静まりの時 第二コリント1・15~24〔神に仕える決断〕
日付:2025年02月13日(木)
24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。
牧師の働きは、信徒の信仰を支配することではありません。支配、すなわちコントロールすることではないのです。牧師は、信徒の喜びのために協力して働く者です。
信徒の喜びのために協力して働く者ということは、信徒に喜びを提供する者でもありません。喜びというものは、自分自身で見出すものです。誰かから提供されてそれを自分の喜びとするなどということはあり得ません。
信徒が、これが自分の喜びである、と見出したものが、必ずしも真実の喜びであるかどうかは、また分からないものです。牧師が、信徒の喜びのために協力して働く者であるとすれば、もし真実でない喜びを、真実な喜びであると錯覚している信徒がいるとすれば、それは真実の喜びではないのではないか、と語る責任を持っていると思います。
誰しも喜びを得たいと願っていると思います。しかし喜びが自分で見出さない限り喜びとは言えないならば、牧師は安易に喜びを提供してはいけません。また信徒は、教会が自分の自分勝手な欲望や願望に基く喜びを提供してくれるところではないとわきまえなければなりません。
教会に来て学び受け入れなければならないことは、自分が神のいのちをもってしか贖われることのなかった罪びとであること。神の御子イエス・キリストを十字架につけたのは、自分、であること。その自分の持つ欲望や願望が、自分に喜びを与えるものではないこと。自分の喜びの源は、そんな罪びとである自分のために、神がいのちを持ってまでも贖いたい、救いたいと願われたこと。その神さまの愛に出会うところ。それが教会です。
この信仰の堅く立つこと。この信仰に堅く立っているならば、真実の喜びにすでに出会っています。かならず真実の喜びに生きることが出来ます。