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神の御前に正しいかどうか

静まりの時 使徒4・13~22〔神に仕える決断〕
日付:2025年02月11日(火)

しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」
(19,20)

 この「自分たちが見たことや聞いたこと」とは、ここで行われた奇跡のことや、使徒たちの宣教において起こった奇跡のことではなく、すでに彼ら自身が語っていますが、10節の「この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです」ということばのことです。
 ただ奇跡が行われた、不思議が行われたということであるならば、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちは憤慨することはなかったのです。2節を見ると、「彼らは、二人が民を教え、イエスを例にあげて死者の中からの復活を宣べ伝えていることに苛立ち、二人に手をかけて捕らえた」のです。
 問題はナザレ人イエス・キリストの名によって語ること。そしてそれはイエスの十字架と復活を語ること。その一点が祭司たちを苛立たせ、憤慨させたのです。
 それはそうだと思います。彼らにとっては、自分たちの権威によって十字架にかけて殺したイエスが、復活した、その名によって神のみわざが行われている、などとペテロたちが言うのですから。
 ですから彼らはとにかく「そこで、彼らは二人を呼んで、イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じ」ました。

 しかしペテロたちは、自分たちが見たことや聞いたこと、すなわち、主イエスの十字架と復活を話さないわけにはいかない、なぜなら、それが神に聞き従うことであるからだ、といいました。

 イエスの名によって語ること、十字架と復活を語ること。それが神に聞き従う道である。この世は、イエスの名によって語ること、すなわち十字架と復活を語ることをよしとしない。しかし教会はこの十字架と復活を語り続けなければならない。それが神に聞き従う道なのです。


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