静まりの時 詩篇6・1~10〔回心〕
日付:2025年02月08日(土)
7 私の目は苦悶で衰え
私のすべての敵のゆえに弱まりました。
「目」が苦悶で衰える、すべての敵のゆえに弱まる。目が衰え弱るとはいったいどういうことだろう。
主イエスは、「からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります」(マタイ6・22,23)と言われました。人生の祝福のポイントは目にある、ということでしょうか。
小学校高学年から眼鏡が必要になり、高校でコンタクトレンズを使用するようになりました。その後も近視は徐々に進み、現在は老眼と近視のダブルパンチです。困ることの一つは免許更新で、何とか基準の視力を出すのですが、毎回緊張するところです。出会った眼科医の多くがコンタクトレンズではなく眼鏡を使用しているのを見るにつけ、コンタクトレンズの問題を感じ、今は日曜日以外はできるだけ眼鏡を使用しています。
物事がはっきりと見えない、という状態は、心もちょっと塞いでしまうような感じがします。ということは、心が開かれるためには、目もしっかりと開かれていなければならない、ということかもしれません。
問題は、その目で何を見るか。この詩篇の著者は「私は」という言葉を連発します。視界には自分しか見えていないようです。しかし同時に「主よ」と呼びかけます。
自分だけしか見えないならば、目は衰えてしまう。そうして全身が衰えてしまう。しかしすべてのものを、主を見上げてみる、主を通して見る、主の御手の中にあって見る。そうすると目が健やかにされていく。
「私たちの祈りが神との絶え間ない交わりになるのは、美しいことも醜いことも、うまくいっていることもいっていないことも、誇らしいことも恥ずかしいことも、悲しいことも嬉しいことも、あらゆる思いを、私たちの内に住み、私たちを取り囲んでおられる方の前で考えることができるようになったときなのです。そうすることで、私たちの絶え間ない思考は絶え間ない祈りに変わり、自己中心的な独白から神中心の対話へと変化していきます。ただしそのためには、自分の思考を会話に変換する必要があります。したがって、私たちが問うべきなのは、何を考えているかということよりも、誰に対して自分の考えを差し出すかということなのです。なぜなら、絶え間なく祈るとは、愛なるお方の臨在の中で考え、生きることであるからです。」(ヘンリ・ナウエン、『ローマの道化師』、中村佐知訳、2024年、116頁)
絶えず祈りなさい(第一テサロニケ5章17節)、ということは、どんな事態に出会ってもとりあえず祈りなさい、ということだけではなく、それが「絶えず」ということであるならば、私たちの人生の全時間が祈りとなっているということ、そういうことが求められていることなのでしょう。誰かと話している時も、その相手と一対一ではなく、その横にイエスさまもいて下さり、私の語る言葉が、イエスさまへの祈りとなっている。ひとり悶々と考えを巡らせている時も、その思考のすべては、イエスさまに向かってなされている。そうすることによって、私の思考のすべてが神さまとの会話となる。