静まりの時 ルカ19・1~10〔回心〕
日付:2025年02月07日(金)
ザアカイは、エリコを通られるイエスさまを一目見ようとしました。どうして見ようとしたのか、見ようと心が動かされたのか。ここに奇跡が起こっています。
ザアカイは、自らの背の低さによって、他の人々と同じようにイエスさまを見ることができませんでした。そこであきらめるのではなく、イエスさまを見ようとして、いちじく桑の木に登ります。成人男性としては少なからず奇異な行動です。何とかしてイエスさまを見ようとした。ここに二つ目の奇跡がザアカイの内に起こっています。
神を一目見ようと「上に昇る」。ザアカイに限ったことではありません。おおよそ人間は上に、高みに昇ると神が見えると思うのです。しかしザアカイの出会ったまことの神は下から見上げてくださるお方でした。
5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
まったく予想を超えた言葉が語られました。神が自らの名を呼び、自らのところに「泊まる」、とどまる、と語られたのです。
6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
上に昇ることを求めたザアカイは、喜んで降りて来ました。そして喜んでイエスさまを迎えました。
しかしそんな麗しいザアカイとイエスさまとの出会い、喜びの食卓を見て、人びとはそれを揶揄しました。
7 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
しかしザアカイはそんな「人びとのことば」をよそに、主に告白します。
8 ・・・「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
こう語るザアカイに主は言われました。
9 ・・・「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
救いとは何か。罪が赦されることであり、それは私たちの行いには一切かかわりなく一方的に神さまから与えられる恵みです。しかし本当にその恵みを受け取った者は、自らの生き方を見直します。もし自らの罪に開き直って、悔い改めにふさわしい実を結ぶことをないがしろにしているとすれば、それは誤解を恐れずに言うとすれば、救いがまだやって来ていない、ということなのだと思います。
救いは、それが真実なものであれば、必ず「行い」を伴うものです。
同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
(ヤコブ1・17)