静まりの時 ガラテヤ1・11~17〔回心〕
日付:2025年02月05日(水)
15 しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、
16 異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、
17 私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。
使徒の働き9章などを見ると、パウロは回心した時、目が見えなくなって、人びとに手を引かれてダマスコに連れて行ってもらったとあります。ダマスコではアナニアの導きにより再び目が見えるようになり、洗礼を受けました。そのダマスコで弟子たちと交わりを頂き、証しをするようになると、ユダヤ人たちからいのちを狙われるようになり、エルサレムに移動します。エルサレムで弟子たちの仲間に入ろうと試みますが、みな警戒します。そこにバルナバが橋渡しをし、ようやく仲間に入ることが出来ました。しかしそこでもユダヤ人たちにいのちを狙われるようになりましたので、弟子たちはパウロをカイザリアに、そしてタルソに送り出しました。こうしてパウロは巡回伝道者となっていきました。パウロは、イエスさまに出会った後、多くの弟子たちの助けによってキリスト者として、そして伝道者として成長していったのです。
そのように多くの人の助けを頂いたにも関わらず、このガラテヤ書では、自分はいっさい人の世話にならず、ただひとり神さまだけに導いていただいたと語っています。
人が救われるのには、必ず他の人間の介在があります。いや自分は直接聖書を手にし、神さまに出会った、という人がいるかもしれません。しかし、その聖書を翻訳した人がいます。その聖書を印刷した人がいます。そうして厳密に考えるとすべての人が誰かの世話をいただいてイエスさまを信じるようになったのです。
しかしここでパウロはそういうことも神さまの導きであった、神さまがそうしてくださった、と語っているのだと思います。私たちも他の多くの人々の助けや世話をいただきながら信仰をいただきました。それらすべてに神さまが働いていてくださったと告白します。
パウロは自分を権威づけようとしているのではなく、ひたすら、神さまだけが信仰の土台であることを明らかにしようとしているのだと思います。
11 兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
12 私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。