静まりの時 ヤコブ2・1~8〔分ち合うよろこび〕
日付:2025年02月01日(土)
1 私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。
2 あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。
3 あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、「あなたはこちらの良い席にお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい」と言うなら、
4 自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。
「えこひいき」、「差別」。同じような言葉ですが、この二つは別の単語が使われています。
「えこひいき」は、キリスト教の文献のみに登場する言葉で、「顔」、という言葉を語源としているようです。その人物の顔、すなわち表面的なものによって区別してしまうということでしょうか。
「差別」は、単純に分ける、区別する、差別をつけるという意味で、この節にも書かれていますが、裁判官となって判決を下す、という感じのようです。
前者が、対応の仕方において感情的な反応であるのに対して、後者は決定的な不利益を与える、ということでしょうか。
如何にも立派な身なりで、光ものに身を包む人が来会された。また同時に、如何にも正反対の風貌で、お世辞にも誉め言葉が見つからない身なりの人が来会された場合、私たちは同じように相対することが出来るだろうか。
ヤコブの手紙の最初の読者であった教会では、そこで「えこひいき」が起っていた、ということでしょう。
あからさまにこのような対応をすることはないのではないか、と思いますが、現実的には、罪びとである人間の集まるところですから、想像に難くないとも思います。
問題は、そのような反応をしたとしても、その次に、それに基づいて、実際的な差別、不公平が起こるような対応をしてしまう、ということでしょう。差別をテーマにしたある本には、差別とは、経済的な不公平である、と書かれていました。差別的な言動もさることながら、それに基づいて実際的な不利益を与えてしまう、ということ自体が差別なのです。時代の違い、文化の違いで、なにげなく語られる言葉には、人の心を逆なでするものや、差別されたと感じてしまうことばも語られてしまいます。しかしそれは、上記の理解では差別とは言えない。問題は、実際に不利益、不公平が行われる、ということで差別と言えるということなのでしょう。
私たちは「私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰」を持っています。栄光とは栄える光と書きますが、輝くということですから、私たちの信仰はいつも輝いている神さまへの信仰である、ということです。人間の輝きではなく、人間以外の輝き、自分ではなく、神さまの輝き。その輝きに照らされている。その光の中で、ともに生きる人たちを見つめていく。正しい光であれば、その光に照らし出されたものを正確に見ることが出来る。表面的なものではなく、内面をも視野に入れることが出来る。
それは、人を見透かす、ということではなく、神さまがこよなく愛しておられる一人の大切な人として、全ての人を見ることが出来る、ということだと思います。