静まりの時 使徒4・36~5・11〔分ち合うよろこび〕
日付:2025年01月31日(金)
すると、ペテロは言った。
「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(3,4)
教会の運営はキリスト者たちの献金によって支えられています。初代教会も、そして現代の教会もそうです。キプロス生まれのバルナバも、所有していた畑を売って、その代金を使徒たちのところに持ってきました。同じようにする人たちはほかにもたくさんいたのだと思います。
そんな中にアナニアとサッピラという夫婦がいました。彼らも自分たちの土地を売りその代金を使徒たちのところに持って来ました。しかし「代金の一部を自分たちのために取っておき、一部だけを持って」来ました。彼らのその行為はなぜか使徒たちの知るところとなり、それは「神を欺いた」ことと評価され、ペテロから厳しい叱責を言葉が語られることになりました。それだけではなく、夫婦ともにたちまち息絶えてしまいました。なんと恐ろしいことでしょう。
アナニアとサッピラの息が絶えるほどの不正、罪とはいったいなんだったのでしょうか。
おそらく一部だけを持ってきた、ということ自体が問題だったのではないと思います。問題は一部であったにも関わらず、それを全部のように偽りをもって献げたことにした、ということだったのだと思います。夫であるアナニアが死んで、3時間後に妻のサッピラもそのことを知らずに偽りをいい、その結果死にます。この辺はにわかには信じがたいような流れなのですが、とにかく聖霊を欺く、神を欺くことの恐ろしさが明らかにされた驚くべき出来事でした。
これをもって、しっかり献金しましょう、というメッセージも可能かもしれませんが、恐れに縛られて献げ物をする、ということはあまりキリスト教的ではありませんし、聖書の語ることではないと思います。すべてを献げる、といっても、こののちを読んでいくと、自分の家を祈りの家として開放していた女性が登場します(使徒12・12)が、彼女は決して自分の家を売り払ってはいません。
ではなぜこのようなことが書き記されて聖書として後代に残されたのか。
まず献金は神さまとの関係においてそれぞれが決めることであって何かに縛られる必要はない、ということだと思います。アナニアたちはありのままに、これは一部ですが、といえばよかったのではないか。どうして偽りを語ったのか。私はその直前になされたバルナバの行動が少なからず影響しているのではないか、と思います。
献金だけではなく、署名についているカンパも、前の人がどれだけカンパしているかによって、自分の額を決めるということがあります。余裕のある者にとってはそれほど大きな問題ではないかもしれませんが、余裕のない者にとっては、その額が大きいと困ります。いっそのことそんな活動からは距離をとりたいとも思えてきます。
献金は神さまとの間での取り決めであって、本来自由なのです。アナニアたちが偽ったのは、献金の額もそうですが、それ以上に自分を偽り、そしてそれは神さまを欺くことであった、ということでしょう。
自由に献げればよいのです。しかしそうはいってもいろいろ複雑な私たちですから、配慮としてだれがいくら献げたかなどということは、いっさい不問とし、明らかにされないシステムが大切だと思います。
今一つこの個所から考えさせられることは、アナニアたちの行為は、けっして他人事ではなく、私の内にも大なり小なりあるのではないか。不正や偽りとまでは言わなくても、胸を張って明らかにできることばかりではないのが私たちの実情ではないか。そうであれば、私もアナニヤたちのようにたちどころに死んでしまうのではないか。にも関わらずこうして生きているのはなぜか。
本来神さまの聖さが発動されるならば、人間はすべて生きていることはできないのだと思います。アナニアたちと同じように私も生きていることはできないのです。にも関わらず今生きている。それは、生かされている、生かしていただいている、神さまが忍耐と愛をもって生かしていてくださることにほかならないのです。
人間は生きているだけで、そこに神さまの愛が明らかにされているのです。もちろん私が生かされていて、アナニアたちがたちどころに死を迎えたことについては、説明はできません。しかし、いまこうして私が生かされているということを、本当にもったいないことであると感謝して生きることが大切なのではないか、と思います。