静まりの時 第一コリント11・17~22〔分ち合うよろこび〕
日付:2025年01月30日(木)

20 しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。
21 というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。

 コリントの教会には分裂があったといいます。それは手紙の最初から問題とされていることでした。それがこの11章に来て、聖餐の問題を取り上げ、この聖餐における分裂こそ、解決されなければならない問題であると語ります。
 共同体が分裂している、ということは良いことではありません。しかし「本当の信者が明らかにされるため」、すなわち間違った信仰の在り方を主張する者に対しては、それは間違っていると言わなければなりませんので、言われたほうが素直にそれを受け入れるならば分裂することはありませんが、自分のほうが正しいと主張し続けるならば、分裂することもやむを得ないことである、と聖書は語ります。
 しかし信仰を厳密に理解し信じているかといえば、どうもそうではないと言わざるを得ないことも多い私たちですから、まったく同じ信仰理解に立っているのか、というとそれも難しい。最大公約数的なところで、信仰の一致を見出しているのが現状であり、それがキリスト教会の在り方であるとも言えます。その最大公約数を使徒信条、あるいはニケア信条としているところがキリスト教会です。
 その上でこれだけはゆずれない、ということが、「聖餐式」である、とパウロは語ろうとしているのではないか、と思います。聖餐についての理解、パンとぶどう汁についての理解、ということではありません。その方法、聖餐式における「秩序」を問題にしています。それぞれがどのように考えていても多少は許容するのです。しかし秩序については、ゆずれないものがある。
 分れるに悩むコリントの教会でしたが、この聖餐式における混乱をなくし秩序を取り戻そうとパウロは語るのです。いろいろな取り組みが必要であったと思います。しかしまずは聖餐式をちゃんとしようというのです。

 コリントの教会では、あるいは初代教会では、聖餐といわゆる「愛餐」が混同されていたようなことだったと思います。
 ともに食事をする、ということは楽しいことです。そこでこそ交わりが鮮明になります。あるいは交わりを育てていく場所となります。イエスさまもたびたび食事をなさいました。しかし奴隷が多くいたコリントの町の状況を色濃く反映していたコリントの教会では、自由人と奴隷との生活サイクルが違いますので、いっしょに集まるということがなかなか難しかった。自由人は早くから集まることが出来ます。しかし奴隷たちは、仕事を終えてからしか集まることが出来ません。仕事を終えて教会に駆けつけたときには、もう食事が残っていない。それは愛餐において悲しいことですが、それだけでなく聖餐のパンも残っていなかった。それは、せっかく主の晩餐に預かろうと思ってきたのに、それがかなえられない、ということであった。
 そこで、とにかく聖餐と愛餐を分離して、聖餐だけは皆があずかることが出来るように、秩序を持とうと呼びかけたのです。


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