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喜んでする思いがあるなら

静まりの時 第二コリント8・8~15〔分ち合うよろこび〕
日付:2025年01月28日(火)

12 喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じて受け入れられるのです。

 献げ物はもとより、さまざまな他者のための行動も、そこに喜びがあるかないかは大切なことです。「喜んでする思い」。それがあるならば、持っていないものではなく、「持っているもの」に応じて受け入れられる。パウロはそう語ります。
 私がいま手の中に持っているもの。それがどんなものであれ、喜んでする思い、があるならば、受け入れられる。だれに受け入れられるのか。神さまに受け入れられる。そして実際に目の前にいる人に受け入れられる。

 「持っていないものに応じて」とはいったいどういう意味なのか。持っていないものならば、献げるということもできないのではないか。そうであればそもそも受け入れられるということはあり得ないのではないか。
 私たちは、本来持っていないものであるのにも関わらず、受け入れてほしいと願うことがあるだろうか。ただ献げてもいないものを受け入れてほしい、あるいは献げずして受け入れてほしいという願いを持つことはあるのではないか。
 自分自身を受けれいてほしい、と願うならば、自分自身を献げなければならない。そのすべてを献げるならば、すべてを受けれいていただける。しかし一部であれば、その献げたものは受けれられるけれども、献げなかった他のものは受け入れられることはあり得ない。
 本来神さまは私のすべてを受け入れたいと願っていてくださるお方です。しかしそれには少し条件があって、私が献げたものを受け入れようとされる。それは神さまが私たちに強制なさるお方ではないからです。私たちが喜んで献げるならば、それを受け入れたいと願っておられる。
 喜んで自分のすべてを神さまの御手の中にお献げする。そうして私のすべてが神さまの御手の中にそっくりそのまま抱かれていることを喜んで生きていきたい、と思います。


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