静まりの時 第2コリント9・6~15〔真の富〕
日付:2025年01月22日(水)
8 神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。
第二コリント8章、9章は、教会における献金について書いてあるところです。教会は、困窮した教会を助けるために、他の教会が献金を送るということを行っていました。人が一人でいるのはよくない、と神さまは言われました(創世記2章)が、教会も一つではよくないのです。教会の群れの中にある、ということが教会の健康を守る大切なことです。
教会が互いに支え合い励まし合う。今も全世界で行われていますし、また私たちの小さな団体でも行われています。他の団体から見れば少し大きすぎるのではないか、と思われるほど私たちの団体は互いの教会をさまざまな面で支え合うことを大切にしています。
パウロはここで、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにささげてほしい、と願っています。
献げ物が、義務や帳面けしのようなことになるならば、それはもはや献げ物ではない、ということでしょう。心で決める、といいますが、神さまを信じている私たちが、心で決める、ということは、神さまと相談して決める、ということになると思います。
神さまと相談したら、私の手の中にあるものがもともと神さまのものであり、その神さまが豊かに与えてくださるお方であるのですから、結局、豊かに与えることになるのではないか、と想像しますが、それぞれを生かすために神さまは与えて下さいますから、自分や家族が生きることを大切にしながら、よく相談することが大切だと思います。
箴言30章に次のような言葉があります。
7 二つのことをあなたにお願いします。
私が死なないうちに、それをかなえてください。
8 むなしいことと偽りのことばを、
私から遠ざけてください。
貧しさも富も私に与えず、
ただ、私に定められた分の食物で、
私を養ってください。
9 私が満腹してあなたを否み、
「主とはだれだ」と言わないように。
また、私が貧しくなって盗みをし、
私の神の御名を汚すことのないように。
パウロは、ここで困窮の中にある教会を助けるために献金のアピールしているのですが、それは結局神さまとの関係を問いかけているようにも思えます。他者に対する神さまからの祝福を祈りながら、具体的な援助をしていく、ということかなとも思います。祝福することのできるのは、神さまだけですから。
祝福を祈りながら具体的な援助をしていくこと。祈りのない具体的な援助か、具体的な援助のない祈りか、などと考えてしまうと何か変な感じがしますが、真実の援助は祈りを伴うことだと思いますし、真実の祈りは具体的な行動を生み出すものだとも思います。
強いられてではなく、ということですから、他者と比較して考える必要はありませんので、客観的な大きさに関わらず、喜びと感謝をもって献げることが意味のあることなのだと思います。
人生の豊かさは、その人がどれだけ蓄えたかで測れるのではなく、どれだけ献げたかによって測れるものです。