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このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです

静まりの時 コロサイ2・16~23〔成熟する信仰〕
日付:2025年01月18日(土)

18 自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、
19 かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。

 聖書の語る信仰は、「主」と結びつくことに始まり、「主」と結びつく道に前進することであり、それは自己中心であった私のあり方から脱却して、主をかしらとすることです。
 しかしこのコロサイの手紙が書かれた背景には、「自己卑下」や「御使い礼拝」を「喜んでいる者」がいて、そのような人たちが、キリスト者たちを「断罪」していました。自己卑下や御使い礼拝を喜び、キリスト者たちを断罪する人たちとは、キリストをかしらとしていない人たちでした。では誰をかしらとしていたのか。それは自分自身をかしらとしていたのです。
 キリストをかしらとする者たちが集うところで、それぞれが「つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです」。キリストをかしらとせず、自分自身をかしらとする人たちが集う教会は、つなぎ合わされることがありませんし、神さまによって育てられ成長することがありません。
 教会が豊かに成長するところであるためには、それぞれがしっかりとイエスさまをかしらとする、自己中心から脱却するということが最重要課題です。

 自己卑下、御使い礼拝が具体的にどのようなことであったのかは十分知ることができませんが、いたずらに自己卑下することは、ただしい悔い改めの姿ではないということでしょう。また、御使い礼拝とはなにか。もしかしたら現実離れした作り話のうえの礼拝で、それは、自分の現実、罪性に目を向けないことであったのかもしれません。極端に自分に固執するか、極端に自分から目を離してしまう。いずれも自己中心のかたちであり、主をかしらとしないことなのだと思います。


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