静まりの時 エレミヤ1・1~10〔成熟する信仰〕
日付:2025年01月17日(金)
7 主は私に言われた。
「まだ若い、と言うな。
わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、
わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。
8 彼らの顔を恐れるな。
わたしがあなたとともにいて、
あなたを救い出すからだ。
──主のことば。」
もともと祭司であったエレミヤを神さまは預言者として任命されました。
祭司と預言者は、神さまに仕えるという点では同じような感じですが、祭司はどちらかと言うと体制側、預言者はアンチ体制側です。祭司が与党とすると預言者は万年野党です。祭司が権力者に対してやや甘いのに対して、預言者は常に権力者に対峙し厳しい意見を言います。
祭司であったエレミヤが、神さまからの召しをいただいて預言者として立つことになったのですが、それは大きな変化だったと思います。恐れるのも無理はないと思います。
恐れるエレミヤに神さまは語り続けられました。あなたが生まれる前から預言者として定めていたのだ、わたしが遣わすのだ、わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出す、さあわたしのことばをあなたの口に与えた・・・。かなり強引にことを進めて行かれます。粘り強いというか、あきらめないというか。モーセが召されたときを思い起こします。
恐れるエレミヤを、神さまは無理に奉仕に遣わそうとしているということですが、しかしこの恐れている、ということは、遣わされるにあたり大切な条件かもしれません。神の言葉を語るということに恐れ(畏れ)を持たない預言者は、その務めを果たすことが出来ません。
「彼らの顔を恐れるな」。
彼らの顔を恐れる。顔色をうかがう。恐れるあまり彼らにとって耳障りの良いことばを語ってしまう。それは、本当に恐れなければならない方を恐れていないからです。神さまへの恐れがないから、人を恐れてしまう。神さまへの正しいおそれを持っているならば、人を恐れることから解放される。
人を恐れない、ということは、傍若無人にふるまうということではありません。傍若無人に、すなわち勝手気ままにやりたい放題ということは、結局神をも恐れないことです。神を恐れることによって、人を恐れることから自由にされる、ということは、御霊の実に生きることではないかと思います。それは信仰の大人にできる品性のある美しい生き方なのだと思います。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
(ガラテヤ5・22,23)