静まりの時 第一コリント14・20~25〔成熟する信仰〕
日付:2025年01月16日(木)
20 兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。
健やかな信仰は成熟する方向を持っています。成熟する、成長する。それは大人になるということです。子どもっぽいこと、子どもじみたことから脱却し、大人となっていく。考え方において大人となっていく。それが健やかな信仰のありかたです。
ここで子どもっぽいこと、子どもじみたことと指摘されているのは「異言」のことです。異言を語り悦に入っているのは、子どもじみたことである。誰にも分からない言葉を語って自分一人何ものかになったかのような気分の中に、優越感の中に浸っているなどというのは、子どもっぽいことである、成長した信仰者、大人になった信仰者のすることではない、とパウロは厳しく語っています。
21 律法にこう書かれています。
「『わたしは、異国の舌で、
異なる唇でこの民に語る。
それでも彼らは、
わたしの言うことを聞こうとはしない』
と主は言われる。」
22 それで異言は、信じている者たちのためではなく、信じていない者たちのためのしるしであり、預言は、信じていない者たちのためではなく、信じている者たちのためのしるしです。
神さまは、民にとって異国の言葉のような異言をもって語るが、それでも彼らは言うことを聞こうとはしない。異言というのは信じていない者たちのためのしるしである。逆に信じている者たちのためには、預言が語られる、といいます。
23 ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか。
これは厳しい言葉です。いままでのところではパウロは異言を語って教会を混乱させている人たちをやんわりと諭そうとしているようでしたが、ここにきて異言を全否定しています。
24 しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、
25 心の秘密があらわにされます。こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。
異言に対して預言とは何か。ここでは「皆が預言をする」といいますが、皆が神さまの言葉を語るのか。
今日では、礼拝での説教と考えるべきだと思います。説教は説教者一人が語ります。それは語る者と聞く者というかたちを作っていはいますが、説教者の語る説教の言葉を神の言葉として受け止め、そのことばに生きようとしている会衆も、その場面では聞く者ではありますが、教会というところにおいて、神の言葉を語っていると言えるのではないか。
もし説教者の語る言葉に逐一反論して、私はそうは思わない、と主張しているとすれば、その人は説教者の語る言葉をともに語っているとは言えませんが、説教者の語る言葉に心探られたり、励まされたり、何らかの形で受け入れているというのは、ともに語っているということなのだと思います。
そうして、異言ではなく預言を語る目的は「悔い改め」と「神を礼拝する」ことです。異言では神を礼拝するというよりも、それを語る人間を礼拝するみたいな子どもじみたことになってしまう。しかし預言であれば、そこに悔い改めが起こり、そうして神さまを礼拝する者へと皆が導かれていく。パウロはそう語りました。
それで教会では徐々に異言はすたれ、礼拝においては説教が中心的に語られることになっていったのだと言われます。